歌川八重子

歌川八重子(うたがわやえこ 本名:深川政江 1903年8月22日生)
 [女優]



 兵庫県生まれ。神戸市立女子商業学校を中退し、1918年に神戸の聚楽館で井上浩一座のオペラを鑑賞したのがきっかけで、舞台に立つ。その後井上の劇団「紅劇団」に入って満州・シベリアの巡業に参加するが、天津で劇団が解散。天津のエンパイヤ劇場で公演をしていたロシア人舞踏家姉妹のもとで舞踏を学び、1920年に帰国して村田栄子の一座に参加。1921年に日本歌劇協会の設立に参加する。

 1922年、松竹蒲田撮影所に入社し、『野の花』で映画初出演。島津保次郎の作品に出演するが、1923年に松本泰輔の相手役として、さらに松竹の看板女優である栗島すみ子と似ていた事情もあり、帝国キネマに移籍する。松本とのコンビで多数の映画に出演、古巣松竹での岩田祐吉・栗島すみ子に引けを取らないコンビと評された。

 1925年、帝国キネマの内紛により松本泰輔・松本英一たちと帝国キネマを退社。アシヤ映画に参加するが、1926年にアシヤ映画が帝国キネマと合併したのに伴い復帰する。1931年、帝国キネマが新興キネマに改組後は助演が増えていったが、母物映画では主演をつとめることもあった。1936年からは脇役に回った。この間嵐寛寿郎プロダクションや阪東妻三郎プロダクションの映画にも出演した。

 1941年公開の『母の灯』の出演を最後に、1942年に引退。1943年9月13日に病気を患い死去した。

 1943年9月13日死去(享年40)