天津七三郎

天津七三郎(てんしんしちさぶろう 本名:車興吉 1935年生)
 [俳優]



 宮城県生まれ。父は警察官だったが、中学生時代に結核で病死する。高校進学後、自身も病弱で学校を長欠したことや母が別の男性と同居するようになったため、単身上京し、映画俳優となった。1956年、新東宝の二枚目俳優としてデビュー。2年後にフジテレビ系列の時代劇『変幻三日月丸』にレギュラー出演。『天皇・皇后と日清戦争』(1957年)や『続番頭はんと丁稚どん』(1960年)などの映画に、脇役であったもののコンスタントに出演し、大物俳優と共演したこともあった。その後、松竹に移籍し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『切腹』(1962年)に出演したが、ヒロポンの常習で逮捕され、次第に仕事がなくなり、俳優を辞めて実家がある仙台に戻り母親と妊娠中の妻と3人暮らしをしていた。

 だが、一時であれ銀幕の華々しい日々が脳裏に焼きつき、知人から借金しては派手な生活を続けた。その後、会社を設立したが僅か3ヶ月で倒産、夜逃げは母親に反対され、借金は更に増えつづけていった。借金で困窮した天津は、以前、仕事で顔見知りだった金融会社社長の三男(当時6歳)を身代金目的で誘拐することを計画。

 1964年12月21日、幼稚園職員に成りすました天津は、偽電話で三男を自宅から呼び出して誘拐したが、車中で泣き叫ぶ三男が邪魔になりロープで首を絞めて殺害した。そのころ三男の母親は帰宅しないのを不審に思い幼稚園へ確認したところ、偽電話だったことが判明して警察に届け出た。天津は三男を自宅の物置に遺棄した後、三男の自宅に電話で身代金500万円を要求したが、身代金の引渡し場所で待機していた捜査員によって現行犯逮捕された。

 1965年4月5日、仙台地方裁判所の一審判決で、極刑に相当するとしながらも、天津の生い立ちや殺害が偶発的であったこと、逮捕後の改悛を情状として無期懲役を言い渡した。裁判長は「被告人の権利を守ってやるのは裁判所だ。憎しみやみせしめのためだけで刑を重くすることがあってはならないと思う」と閉廷後にコメントした一方、被害者の両親は判決を聞いて途中で退廷した。これに対して検察側が控訴し、二審の仙台高等裁判所は1966年10月18日に「本件殺人を目して、単純な全くの偶発的犯行と同一視することは到底できない」とし、生い立ちなどの事情を「加味斟酌しても、前叙その他審理にあらわれた一切の情状を総合してみれば、被告人に対しては極刑をもって臨むのが相当である」と原審を破棄して死刑判決を下した。

 1968年7月、最高裁は天津の上告を棄却して死刑が確定。1974年7月、仙台拘置所で死刑執行となった。刑場で最後を迎えるとき、遺書の代わりに「城ヶ島の雨」を最後まで朗々と歌っていたという。

 1974年7月5日死去(享年39)