立花家橘之助

立花家橘之助(たちばなやきつのすけ 本名:石田美代 1866年7月27日生)
 [女流音曲師]



 5歳の時、女義太夫として初高座。1873年、2代目三遊亭圓橘に入門。大師匠の三遊亭圓朝にも可愛がられ、8歳の時に真打昇進を許された。1882年から足掛け3年半に渡り、大阪、京都、名古屋へと男装で巡業。1887年頃から「三府浮世節」の家元の看板を掲げ、諸派音曲取り混ぜての三味線の名人と謳われた。

 おもに落語の寄席で活躍。寄席では、通常色物は主任(トリ)をとらないが、あまりにも人気になった為演奏が終わると客が帰ってしまうため、彼女だけ例外的にトリを務めるようになった。ところが、その圧倒的な人気を妬む何者かに水銀を飲まされ、声を潰した。しかし晩年まで最高の賛辞を得つづけた。

 1893年3月、落語家の6代目朝寝坊むらくと駆け落ちして結婚。1906年から1907年に掛けて、師・圓橘と夫・むらくを共に亡くすが、師の夫人と2人の遺児を共に引き取り、世の賞賛を得た。その後、落語家の初代橘ノ圓と再婚。1924年に表舞台からは引退し、夫の橘ノ圓と共に名古屋市中区に移った。

 1935年6月10日、京都市上京区に住まいを移すが、そのわずか19日後、京都大水害で自宅が流され、夫と共に水死した。

 1935年6月29日死去(享年68)