ダニエル・クライヴ・ウェルドン(Daniel Clive Wheldon 1978年6月22日生)
[イギリス・レーシングドライバー]
イングランドのエンバートン出身。ウェルドンは4歳のときに父親の資金でカートを始めた。学業年齢の間にレースでの成績を上げていった。イギリス一般中等教育を終了する16歳までベッドフォードスクールに在籍した。フォーミュラカーレースのキャリア初期にウェルドンはアメリカに移住した。これはイギリスでキャリアを進めるにはウェルドンの家庭では充分な資金が供給できなかったからである。1999年にアメリカに移ると、アメリカのフォード・フォーミュラ2000、トヨタ・アトランティックシリーズ、インディ・ライツなどの下級フォーミュラカーレースに参戦した。
2002年、ウェルドンはインディ・レーシング・リーグ(IRL)にステップアップし、パンサー・レーシングより2レースに参戦した。翌2003年にはアンドレッティ・グリーン・レーシングに加入し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。2004年にはツインリンクもてぎでIRLでの初優勝を挙げるとシーズン3勝を獲得し、総合2位で選手権を終えた。
ウェルドンは2005年のインディ500に勝ち、その年のIRLシリーズチャンピオンも獲得した。このシーズン、ウェルドンは6勝を挙げ、サム・ホーニッシュ・ジュニアが持っていたシーズン最多勝記録の5勝を更新した。
2006年は、チップ・ガナッシ・レーシングに移籍して2勝し、IRLシーズン終了時、ウェルドンとホーニッシュ・ジュニアのポイントは475点で並んでいたが、ホーニッシュ・ジュニアはこのシーズン4勝を挙げたがウェルドンは2勝に留まったため、2006年のIRLチャンピオンはホーニッシュ・ジュニアのものとなった。翌2007年と2008年も同チームで2勝ずつ挙げたが、どちらもランキング4位に終わった。
2009年、2010年と古巣のパンサー・レーシングから参戦。トップチームとは言えない体制で上位になかなか上がれないレースが続いていたが、インディ500では2年とも2位に入る結果を見せた。しかしシーズンを通して上位争いはできず、ランキングはそれぞれ10位・9位にとどまり、2010年シーズン終了をもってパンサー・レーシングから離脱した。
2011年はレギュラーのシートを失うも、インディ500にブライアン・ハータ・オートスポーツからスポット参戦し、劇的な逆転優勝を飾った。8月からは2012年より導入される新型シャシーのテストドライバーを務めた。しかし、10月16日の最終戦ラスベガスにスポット参戦するも多重衝突事故に巻き込まれる悲劇に見舞われた。
この日はイベントの一環で、最後尾からスタートして優勝した場合に5ミリオンドル(約3億8000万円)がもらえる「Go
Daddyインディカー・チャレンジ」という賞金獲得チャレンジ企画に選出されていたウェルドンは、224.605マイル(約361km/h)のベストラップをマークする走りで追い上げていた。しかしハイバンクの1.5マイルのなかでこの年最多の34台が時速360kmで密集して走るという異常な状況の中、11周目のターン1で2台のマシンが接触しスピンしたのをきっかけに、後続の13台が次々と追突し多重クラッシュに発展する。24番手を走行していたウェルドンは前方のマシンを避けきれずに追突、不運にも彼のマシンは宙に舞い上がり、回転してコックピット側からコース外側のセーファーウォールとキャッチフェンスに激突した。更にそこへコントロールを失った後続のマシンが直撃し、ウェルドンのマシンが爆発炎上し粉々に破壊された。