グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly 1929年11月12日生)
[アメリカ・女優/モナコ大公妃]
1929年、ペンシルベニア州フィラデルフィアのアイルランド系カトリックの裕福な家に生まれた。父は建築業で成功した億万長者でオリンピックのボート競技金メダル選手、母はドイツ系で元モデルであり大学講師だった。父方の叔父はピューリッツァー賞を受賞した劇作家のジョージ・ケリー。兄は1956年のメルボルンオリンピックのオリンピックボート競技で銅メダルを獲得したジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニア。少女時代はおとなしく、赤い頬の人前に姿を現すのが苦手な子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが一番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。
ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。ニューヨークでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年に舞台『父』でブロードウェイデビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年、22歳で映画『Fourteen
Hours』に出演しデビュー。この作品を見たスタンリー・クレイマー監督が『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的に気品を湛えた美貌は「クールビューティー」と賛美された。また、非常に恋多き女性として有名で、主に自分より年長の男性と浮名を流した。父親が彼女に冷淡な癖に、異性との交際には異常なほどうるさかったことも、背景にある。
カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世と恋に落ち、1956年結婚。公妃となったため女優業を引退する。同年4月18日、モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた。翌4月19日、モナコ大聖堂にて、カトリック式の挙式が行われた。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。モナコ公妃として長女カロリーヌ、長男アルベール、次女ステファニーの一男二女をもうけた。1957年に長女の妊娠をマスコミに悟られないようエルメス社のバッグ「サック・ア・クロワ」でカメラから腹部を隠した。この事でバッグが有名になり、商品は「ケリーバッグ」と改名された。死後もファッションセンス、シンデレラ・ストーリーは多くの女性の憧れの的で、今も彼女を崇拝する女性は多い。
1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中の高速道路で脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡。この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。