シド・ヴィシャス

シド・ヴィシャス (Sid Vicious 本名:ジョン・サイモン・リッチー 1957年5月10日生)
 [イギリス・ミュージシャン]



 ロンドン出身。セックス・ピストルズの2代目ベーシスト。極度の麻薬中毒者としても知られる。パンクロックを地で行く生き方から、彼を「パンクの精神」と呼び、崇拝する人間はイギリス国内外問わず数多い。

 元々彼は、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズの記者会見中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者を殴るなど、目立った存在だった。

 シドという芸名は、ジョニー・ロットンが昔飼っていたハムスターの名前から。そしてそのハムスターがジョニーの父親に噛み付いた事からヴィシャス(凶暴な)という苗字が付け加えられた。ピストルズのライブで初めて怪我人が出た際も、原因は当時ただの客の一人であったシドがステージに向かって投げたビール・グラスがその男性の顔面を直撃して割れた為である。

 ルックスが良く、ヴォーカルのジョニー・ロットンとファッション関係の専門学校時代の友人でもあった。その縁もあってか、初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがセックス・ピストルズを脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラレンの誘いがあって、後任のベーシストとなった。加入した当初は全くベースを弾いたことがなく、またその後も大して上達はしなかった。

 専らライブではベースで客を殴ったり、喧嘩ばかりしており、胸に剃刀で「FUCK」と刻み、血まみれになりながらベースを提げた姿などは有名である。そのパンクを地で行く生き方は多くの若者の支持を集め、後期ピストルズにおいてロットンと人気を二分した。過激な伝説とは裏腹に、本来は非常に気弱で貧弱な青年であったと言われ、セックスピストルズ在籍時にはロットンにいじめ抜かれたという。

 「一切ベースを弾けなかった」という噂の反面、作曲における才能はピストルズの「Bodies」という曲などで発揮するなど、天性の才能を持ち合わせていた一面も持っていた。

 セックス・ピストルズが解散すると、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのパンクバージョンを収録したソロアルバム『シド・シングス』をリリースした。しかし、以前から耽溺していた麻薬のためスキャンダラスな行動を繰り返す。

 1978年10月13日には、ニューヨークにあるホテルのバスルームで恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。真相は明らかでないが、凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したとも言われている。警察には逮捕されるものの、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。


 その後も自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした末、1979年2月1日に麻薬の過剰摂取により死亡した。シドが死に至った直接的な理由は、収監され完全にヘロインが抜けきった体に、高純度のヘロインを収監以前に打っていたのと同じ感覚で大量に摂取した事によるもの。そのヘロインは、その夜、シドに哀願された、彼の母親が渡した物だった。


 死後、シドの革ジャンのポケットから直筆の遺書らしきメモが発見される。「俺達は死の取り決めがあったから、一緒に死ぬ約束をしてたんだ。 こっちも約束を守らなきゃいけない。今からいけば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。お願いだ。死んだらあいつの隣に埋めてくれ。レザー・ジャケットとレザー・ジーンズとバイク・ブーツを死装束にして、さいなら。』と記されていたという。

 シドの母親は、ナンシーの墓の隣に埋葬して欲しいという息子の遺言を果たそうとするが、ナンシーの両親に拒絶された為にシドの墓を掘り起こして彼の遺灰をナンシーの墓に撒いた。シドがヘロインなどといった強い麻薬に溺れたのも元はナンシーの影響であるが、シドは彼女と出会う以前から麻薬を使用していた。

 1979年2月2日死去(享年21)