黒澤明

黒澤明(くろさわあきら 1910年3月23日生)
 [映画監督]



 東京生まれ。1943年『姿三四郎』で監督デビュー。1990年第62回アカデミー賞特別名誉賞受賞。痛快で娯楽性もある斬新なその作品は観客のみならず全世界の映画人に衝撃を与え、発表当時のみならず今なお映画製作・映像製作に多大な影響を与え続けている。

 1967年、アメリカの映画会社「20世紀フォックス」が、日米双方の視点から真珠湾攻撃を描こうという企画で、映画『トラ・トラ・トラ!』を考案。豪腕で知られた当時の社長ダリル・F・ザナックは『史上最大の作戦』をまとめあげた実績を持つエルモ・ウィリアムズを起用して製作がスタートした。

 アメリカ側、日本側双方の場面を別個に撮影して組み合わせる方針であったため、日本側シークエンスの監督に誰を起用するかという意見を求められたエルモは迷わず黒澤明の名をあげた。この話を聞いた黒澤はそれほど乗り気でなかったが、東宝の手を離れて黒澤プロダクションを完全に独立させた直後という事情もあり、黒澤プロのスタッフにとってはハリウッドと組んで大作を撮るという話は願ってもないチャンスであった。黒澤も当時力をいれて進めていた映画『暴走機関車』の製作が一時中断になったことから『トラ・トラ・トラ!』の製作にのめりこんでいく。

 黒澤は膨大な資料を収集した上で、小国英雄、菊島隆三と共同で脚本を執筆し、1967年5月3日に準備稿『虎・虎・虎』を完成させた。

 一方アメリカ側のシークエンスは監督としてドキュメンタリー映画出身で『ミクロの決死圏』『海底二万哩』で知られるリチャード・フライシャーが起用され、1967年7月にハワイでエルモ・黒澤・フライシャーらが一堂に会して製作のための話し合いを行ったが、黒澤はフライシャーを好まず、ほとんど成果を見なかった。結局プロデューサーのエルモが脚本の決定稿をまとめあげたが、黒澤は自分の脚本部分のカットが多かったことが気に入らなかった。ここで製作が行き詰るかに見えたが、社長のザナックが自ら来日して黒澤を訪ね、黒澤も訪米してザナックと会談を行ったことで状況は好転した。

 アメリカでは撮影用に多くの軍用機が手配され、日本でも福岡県の芦屋町に航空母艦赤城と戦艦長門の巨大なオープンセットが製作されたことで製作は順調に進んでおり、黒澤が山本五十六などの軍人役としてプロの俳優でなく演技の素人を大量に起用したことが各所で話題となっていた。

 1968年12月2日、京都の太秦にある東映京都撮影所でいよいよ『トラ・トラ・トラ!』日本側シークエンスの撮影が開始された。ところがそのわずか三週間後の12月24日、20世紀フォックスは病気という理由で黒澤の降板を発表することになる。

 この三週間の間、撮影はほとんど進まなかった。その原因として黒澤の異常なセットへのこだわり(スタッフに作り直しや塗りなおしを命じる)や黒澤の精神的不安定(スタジオ内が危険だとしてヘルメット着用やガードマンの常駐を求める)、黒澤の独特のやり方(山本五十六役の俳優がスタジオ入りするたびにファンファーレの演奏とスタッフ全員による最敬礼を求めたことなど)にスタッフがついていけなかったこと、黒澤が選んだ素人俳優たちがスタッフを満足させる演技を行えなかったこと、あるいは黒澤が酒に酔った状態で何度もスタジオに現れたことなどがあげられている。スタッフからの不満が常に耳に入っており、現場でも黒澤の状態を確認していたエルモだったが、なんとか黒澤をフォローしながら撮影を続けさせようとした。しかし撮影がほとんど進まなかったため、12月24日苦渋の決断を下し、黒澤に直接会ってその監督降板を伝えた。

 「病気による降板」という形で行われた監督降板劇の真相はいまだに不明な点が多いが、黒澤と20世紀フォックスの間の契約に関する詳細な問題や、撮影方針の食い違い、黒澤が自らの権限に関しての認識が不十分だったことなどさまざまな問題が背景にあったとされている。この降板劇の経緯から以後日本では、黒澤の「気難しい完全主義者」というイメージが強くなったとも言われる。

 この監督解任騒動は黒澤のキャリアに大きな傷を残すことになった。

 1970年10月、黒澤の邸宅を抵当に入れて資金を確保し、初のカラー作品『どですかでん』を製作。『トラ・トラ・トラ!』の監督降板騒動などで神経を削ったこともあってか、本作ではそれまでの三船敏郎とのコンビによる重厚な作品路線から一転、貧しくも精一杯生きている小市民の日常を明るいタッチで描いている。

 しかしながら当時の興行成績は明らかな失敗となった。

 1971年12月22日、黒澤明は自宅の風呂場で剃刀を用いて手首を切り自殺を図った。酔った勢いもあり手や腕など21ヶ所を切ったが、幸い傷は浅く一命をとりとめた。黒澤は「3年も熱中していた企画を突然打ち切られたら、監督は殺されるのと同じことだ。」と語った。

 この自殺未遂以後、日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、黒澤作品はほぼ5年に1本とペースダウンすることとなった。