スティーヴィー・レイ・ヴォーン

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(Stevie Ray Vaughan 1954年10月3日生)
 [アメリカ・ギタリスト/歌手]



 テキサス州ダラス生まれ。高校を中退した後、音楽家の道を志してオースティンに向かい、そこでジョニー・ウィンターの目にとまる。その後「ポール・レイ・アンド・ザ・コブラス」というバンドで活動を開始し、1970年代中盤までにシングルを3枚発売した。1975年、「トリプル・スレット・レヴュー」を結成。結成時のメンバーは、ルー・アン・バートン(ヴォーカル)、W.C.クラーク(ベース)、マイク・キンドレッド(キーボード)、クリス・レイトン(ドラマー)であった。1978年、バートンがバンドから脱退。残されたメンバーは「ダブル・トラブル」と名乗り活動を続行する。スティーヴィーがリード・シンガーも兼任するようになったのはこの時からである。

 1982年、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演。演奏を見ていたデヴィッド・ボウイ、ジャクソン・ブラウンに声をかけられる。この時の出会いが、後に彼が成功していくきっかけとなった。1983年、デヴィッド・ボウイのアルバム『レッツ・ダンス』に参加。 同年、ジャクソン・ブラウンのスタジオで録音した「スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル」名義で最初のアルバム『Texas Flood』を発表。50万枚を売り上げてゴールド・ディスクを獲得。またシングル『プライド・アンド・ジョイ』も、シングルチャートトップ20入りを果たした。2作目『Couldn't Stand the Weather』(1984年)と3作目『Soul to Soul』(1985年)もゴールド・ディスクを獲得した。この後、麻薬中毒とアルコール中毒になり入院。麻薬中毒の治療は、ジョージア州アトランタで行われた。1989年、4作目『In Step』を発表。グラミー賞(最優秀コンテンポラリー・ブルース・レコーディング賞)を獲得した。

 1990年8月26日、ウィスコンシン州イースト・トロイのアルパイン・ヴァレイ・ミュージック・シアターで行われたブルース・フェスティバルに出演。エリック・クラプトン、バディ・ガイ、ロバート・クレイ、ジミー・ヴォーンらと共演。終了後、シカゴ行きのヘリコプターに乗り込むが、8月27日未明にアルパイン・ヴァレイ・リゾートにあるスキー場のゲレンデに濃霧で視界を失ったヘリコプターが墜落、エリック・クラプトンのボディガードを含む乗員全員と共に死亡した。

 事故の4日後、葬儀はダラスのオーク・クリフ地区で行われた。参列者は1500人を超え、会場となったチャペルの外には更に3000人が集まるという盛大なものとなった。参列者の中にはジャクソン・ブラウン、ドクター・ジョン、バディ・ガイ、ボニー・レイット、スティーヴィー・ワンダーらの姿があった。

 1991年、テキサス州知事は彼の誕生日である10月3日を「スティーヴィー・レイ・ヴォーン・デイ」に制定。毎年この日はオートバイのイベントとチャリティ・コンサートが開催され、収益金は「スティーヴィー・レイ・ヴォーン奨学金」の資金となっている。「スティーヴィー・レイ・ヴォーン奨学金」は音楽を専門的に学ぶ若者を支援する奨学金で、スティーヴィーの故郷オーク・クリフにあるグレイナー・ミドル・スクールの8年生に支給されている。1992年、フェンダー社はスティーヴィーの愛器であった「ナンバー・ワン」をモデルとしたシグネイチャーモデルのストラトキャスターを発売。フェンダー社の定番商品となり、現在でも生産され続けている。1994年、オースティン市はスティーヴィーのコンサートが数多く行われた市内のリゾート地「タウン・レイク」にスティーヴィーの銅像を設置した。スティーヴィーは現在、故郷ダラスのローレル・ランド・メモリアル・パークに眠っている。

 スティーヴィーの演奏スタイルはエレクトリック・ブルースの一つの頂点と考えられており、後進の音楽家に今もなお巨大な影響を与え続けている。

 1990年8月27日死去(享年35)