ディノ・ブラボー

ディノ・ブラボー(Dino Bravo 本名:アドルフォ・ブレシアーノ 1949年8月6日生)
 [イタリア・プロレスラー]



 モリーゼ州カンポバッソ出身。幼少時に家族と共にカナダ・ケベック州のモントリオールに移住。学生時代にレスリングとボディビルで体を鍛え、1970年にジノ・ブリットのコーチを受けてプロレスラーとしてデビュー。モントリオールを中心に正統派のパワーファイターとしてキャリアを積み、マッドドッグ・バションが主宰していたグランプリ・レスリングでは、1972年11月20日に師匠のブリットと組んでキラー・コワルスキー&ジル・ポワソンからGPWタッグ王座を奪取。アメリカ本土では1974年よりロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングで活動、エドワード・カーペンティアやビクター・リベラのパートナーとなり、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツのハリウッド・ブロンズと抗争した。

 1976年より、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。ミスター・レスリングことティム・ウッズとタッグを組み、5月5日にジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した。ウッズとのコンビでは、同年11月3日のトーナメント決勝でミシェル・デュボア&レネ・グレイを下しミッドアトランティック・タッグ王座にも戴冠している。シングルでは怪力を活かし、ブラックジャック・マリガンやマスクド・スーパースターなど大型のヒールと抗争を展開した。並行してニューヨークのWWWFにも進出し、ドミニク・デヌーチとイタリア人同士のタッグチームを結成。1978年3月14日にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取している。同年12月17日にはカナダのトロントでジン・キニスキーを破りNWAカナディアン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、カナダの伝説的レスラー、ホイッパー・ビリー・ワトソンよりベルトを授与された。1980年からはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。

 1981年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に初来日。開幕戦における長州力と組んでのスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンとのタッグマッチ、そして最終戦でのアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチでは、共に相手がヒールの外国人選手だったこともあって、ベビーフェイスとしての持ち味をフルに発揮した好ファイトを展開。ホーガンやブッチャーの巨体を抱え上げアトミック・ドロップを放つなどの怪力ぶりも喝采を浴び、将来の外国人エース候補と期待された。しかし、再来日となる翌1982年11月の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』ではヒールのアドリアン・アドニスと組まされたため、本領を発揮することができなかった。1983年5月には北米代表としてIWGPリーグ戦の第1回大会に来日したが、家族の不幸のため試合を行うことなく緊急帰国している。その間、本国ではモントリオール地区のインターナショナル・レスリングを主戦場に、プロモーター兼任のエース選手として活動。フラッグシップ・タイトルのカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座をビル・ロビンソン、リック・マーテル、アレックス・スミルノフ、セーラー・ホワイト、キング・トンガらと争い、1985年まで計6回に渡って同王座を獲得した。1985年にはモントリオール地区への進出を図っていたWWFより、WWFカナディアン・チャンピオンに認定される。1986年、WWFのプロモートによりモントリオールでのハルク・ホーガンとのシングルマッチが予定されていたが、同地におけるブラボーの人気にホーガンがヒール扱いされてしまうことを危惧したWWF側の判断で、直前にマッチメイクが変更されるという事態も起こった。

 1987年、WWFと再契約。ブルータス・ビーフケーキと仲間割れしたグレッグ・バレンタインの新パートナーとなり、イタリア人でありながら髪をブロンドに染め、フレンチ・カナディアンとしてのアイデンティティを強調したヒールに変身する。1988年にはカナディアン・ストロンゲスト・マンを名乗り、フレンチ・マーチンをマネージャーにジム・ドゥガンとアメリカ対カナダの抗争を開始。1989年からはジミー・ハートを新マネージャーに迎え、アースクエイクとのカナディアン・コンビでハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアー、ビッグ・ボスマン、タグボートらと抗争した。

 1992年にWWFを離れて引退。その後は若手レスラーの指導にも携わっていたが、1993年3月11日、違法タバコの密輸に絡むトラブルのため、モントリオールの自宅で犯罪組織に射殺された。

 1993年3月11日死去(享年43)