沢田泰司

沢田泰司(さわだたいじ 1966年7月12日生)
 [ミュージシャン]



 日本のロック界に多大な影響を及ぼしたバンド、Xでメジャーデビューしたベーシスト。またベースのみならずギターもプレイし、X在籍時からアコースティックギターによる楽曲も数多く残している。

 千葉県生まれ。兄弟は他に兄と妹が一人ずつ。2歳の時、親がやっていた工場の機械に手を突っ込み、右手中指の第一関節から上を切断した。1974年、小学2年生でアコースティックギターをプレイし始め、3ヶ月後のクラス会で初ステージ。1978年、中学生になると家庭の事情(両親が離婚し、母親が再婚)もあって、非行にはしる。本人曰く「中学3年までにケンカ、バイク、シンナー、女の類は全部やった」とのこと。

 1982年、千葉明徳高等学校に進学して、エレクトリックギターを始めロックにのめり込むようになる。同時にバンドも組み、アイアン・メイデンやレインボー、ディープ・パープル、キッス、モーターヘッド、LOUDNESS、子供ばんどなどのコピーにいそしむ。プロのミュージシャンになるため僅か一年で中退。この時、「トラッシュ」というバンドを結成(当時はギタリスト)。沢田の作ったオリジナルの曲でコンテストを勝ち抜いた。またベスト・ギタリスト賞も受賞。

 1985年、友人のバンド「ディメンシア」でベースをプレイしたことがきっかけで、ベーシストへ転向。ディメンシア時代はRayという名を名乗っていた。その後、ディメンシア脱退後はプローラーに加入するも、リーダーのセイブン (Vo)と反りが合わずライブを一度も行うことなく脱退。また家も勘当され、一時期渋谷のラブホテルで住み込みのアルバイトをして暮らしていた。

 1986年、いくつかのバンドを渡り歩いた後にXへと正式加入。当時沢田はXの音楽性が自分に合わず加入するつもりはなかったが、YOSHIKIの熱心な誘いを受けるうちに「この人となら音楽以外の何かでもできそうだ」と感じ、沢田の推薦するギタリストと交代させることを条件にXに加入することになったと語っている。その後一度脱退しているが、また戻ってきている。この時のXは、インディーズの頃からメンバーに課せられる出費が大きく、とてもアルバイトでは追い付かなくなり、身の回りの物を売り払ってまでお金を用意していた。ひどい時は電気を止められ、食べる物を買うお金がなくなり、コンビニエンスストアでパンを盗んで飢えをしのいでいた。

 1989年、Xメジャーデビュー。アルバム『BLUE BLOOD』はオリコン初登場6位、1989年だけで60万枚のセールスを記録する異例の大ヒット。また、日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を受賞。Xの人気が広まっていく中、この頃に結婚し、その後一男一女をもうけている。

 1991年頃からスタジオミュージシャンとしての契約になる。1992年1月31日、X脱退(実質的には解雇)。ラストステージは1月7日の東京ドーム3days。原因は、収入格差に文句を言ったのとYOSHIKIのドラムプレイに対して平気でダメ出しをする様になってYOSHIKIとの間に軋轢が生じたからではないかと沢田自身は自伝にて述べている。Xからの公式な発表では音楽性とファッションの違いとされていたが、YOSHIKI自伝「佳樹」の中で「TAIJIのベースはXに必要だったが、YOSHIKIとTAIJIの間での約束をいとも簡単に破ったこと」が原因として挙げられた。

 1992年4月頃、親交のあったLOUDNESSに前任ベーシスト山下昌良の推薦で加入。芸名をTAIJIから本名の沢田泰司に改める。1993年11月、LOUDNESS脱退。この年LOUDNESSは契約上のトラブルで解散状態になっていた。その後リーダーの樋口宗孝よりLOUDNESS再始動の呼びかけがあったものの、解散状態であった時期にLOUDNESSの活動を諦め、ソロアルバムの制作(後のD.T.R)を決めていたためにタイミング的に再集結を辞退し、脱退せざるを得なかった。

 1994年7月、自身がリーダーを務めるDirty Trash Roadを結成。バンドと同名のアルバム「Dirty Trash Road」を発売する。1995年、芸名を本名から沢田大司に改名、またバンド名を略称のD.T.Rを正式名称に変更。D.T.Rの2ndアルバム「Daring Tribal Roar」をリリース。しかし翌年、D.T.R事実上の活動休止。ほぼ同時期に経済的な理由で妻とは離婚。以降約2年に渡って放浪生活を送る。この頃は倉庫などに寝泊りしていた。

 1998年5月、HIDEの葬儀に出席し、久々に旧友たちと再会を果たす。その後、彼らの支援によって活動を再開する。この頃に芸名を本名の沢田泰司に再び戻す。

 2005年、バイク事故を起こし足の靭帯を切断するほどの大怪我を負う。手術費用工面のため、自身のベースをインターネットオークションに出品することになる。2006年7月30日より再びD.T.Rの活動を再開、個人としては初となるオフィシャルサイトがオープン。そして、シルバーアクセサリーブランド「DTROCKERS」を立ち上げる。

 2008年7月公開の映画「attitude」で音楽監督を務める。同年9月、持病のてんかん・脳梗塞が悪化、左足大腿骨頭壊死による人工股関節が外れ緊急手術。歩行困難となり、12月2日に転倒事故で胸と喉を強打し入院したことが自身のブログで明らかにされた。

 2009年11月、2007年以降活動が停滞していたD.T.Rの解散を発表。同時に、沢田と黒田により同名のバンド「D.T.R」の結成が発表された。新D.T.Rは「Death to Rive」の略と説明されている。

 2010年1月、自身のバンドであるTAIJI with HEAVEN'Sを本格始動。TAIJI with HEAVEN'S名義でファーストミニアルバムをリリース。同年7月、8月14~15日に日産スタジアムで開催される「X JAPAN WORLD TOUR Live in YOKOHAMA 超強行突破 七転八起 世界に向かって」に緊急参戦が決定したとメディアで報道された。報道通り沢田は14、15の両日に当時と同じTAIJI名義にて「X」を演奏し、1992年の東京ドーム3days,「破滅に向かって」以来約18年ぶりに旧友であるX JAPANのメンバーとの競演が実現した。

 2011年7月11日、成田からサイパン島に向かう航空機内で乗務員に暴行、窓や座席をたたいたり蹴ったりしたとして逮捕された。拘束中にベッドのシーツで首を吊って自殺を図り、病院の集中治療室で治療を受けていたが、意識不明になっていることが同月15日に報じられ、16日に脳死状態に陥った事から、婚約者と家族が現地入りし対面した後、家族の同意を得て人工呼吸器など延命機器が外され、17日に死亡した。

 なお、この自殺には不可解な点もある。14日に病院に運ばれたが、この情報が日本に伝わったのは16日で2日も経過していた。しかも、病院に運ばれた時点で脳死状態だったはずが、「意識があり、言葉を喋っている」という内容の情報が伝わった。また、自殺未遂がニュースとして伝わるや、ブログやホームページが全て削除された。このような操作を誰が行ったかは不明。その他、首を吊った時に出来る痕が全くなかったといった未確認情報もあり。

 2011年7月17日死去(享年45)