スチュアート・サトクリフ

スチュアート・ファーガソン・ヴィクター・サトクリフ(Stuart Fergusson Victor Sutcliffe 1940年6月23日生)
 [イギリス・ベーシスト/画家]



 本業は画家。しばしば、『5人目のビートルズ』と呼ばれる。スコットランドのエディンバラに生まれ、マージーサイド州フイトンで育つ。リヴァプール・カレッジ・オブ・アートに進学。在学中ジョン・レノンと出会い、2人は共同生活をするほど親しくなり、ジョンが心を許す事の出来る数少ない友人の1人とされる。その中の良さにはポール・マッカートニーが嫉妬するほどだった。

 元々楽器は弾けなかったが、1960年に自分の絵が60ポンドもの高値で売れたことからジョンとポールに勧められてベースを購入、バンドに加入したと伝えられる。ルックスが良く、実際に残っている写真を見ても相当な好青年だったことが窺える。画家としての技量は相当で、芸術学校の奨学金特待生だった。

 1960年8月、ハンブルクで演奏するためにビートルズの一員としてドイツへ行く。そこでドイツ人の女性写真家アストリッド・キルヒヘルと知り合い、意気投合した二人は11月には婚約。労働許可証不所持などを理由にメンバーたちが海外追放されるなか、同じく退去命令を受けていたサトクリフは1961年2月末に帰国するが、3月15日、単独でハンブルクへ戻る。

 4月1日、ビートルズは2度目のハンブルク巡業を行う。この巡業後、サトクリフは画家として専念するため正式にビートルズを脱退。このため、ギターを担当していたポール・マッカートニーはベースへ転向することになった。

 その後サトクリフは、アストリッドと同棲を始める。奨学金を貰い、ハンブルク州芸術大学で学びながら創作活動に専念していたが、1961年の夏頃から頭痛などの体調不良を訴え始める。1962年4月10日に容態が急変し、脳出血のために21歳の若さで他界。それは、3回目の巡業のためにビートルズがハンブルクを訪れる前日のことであった。脳出血の原因について詳しくは明らかになっていないが、学生時代に喧嘩した際に頭を強く打ち付けたことが要因ではないかと言われている。


 ビートルズという途方も無い計画に巻き込まれた才気あふれる画家だという見方もあるが、ジョン・レノンと固い友情で結ばれていた、と見るのが一般的である。

 サトクリフの演奏の録音はこれまで存在しないと言われてきたが、1995年にリリースされた『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に、1960年にポールの自宅で録音された3曲が発表され、そのうちポール自作のインスト曲「カイエンヌ」では唯一サトクリフのベースを聞くことができる。

 1962年4月10日死去(享年21)