タイタニック号沈没事故

タイタニック号沈没事故(1912年4月14日発生)
 [タイタニック は、20世紀初頭にイギリスのホワイト・スターライン社の4万総トン級の第2船として建造された豪華客船である。画期的な二重底と防水区画を採用した「不沈船」として、また大きさと設備の豪華さに重点を置いて設計された。総トン数46328トン、全長269.1メートル、幅28.2メートル、全高10.5メートル、速力23ノット。1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1513人であり、当時世界最悪の海難事故であった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。]



 1912年4月10日に、タイタニックは多数の著名人を乗せてイギリスのサウサンプトンからニューヨークへとむけた処女航海に出航した。エドワード・J・スミス船長の指揮下のもと乗員乗客合わせて2200人以上を乗せており、一等特別室は、6日の航海の費用4350ドルと伝えられている。

 タイタニックの出航は予定より約1ヶ月遅れであった。1ヶ月前の3月に出航していれば、流氷の量は少なく氷山との衝突事故の発生確率は少なかったと言われている。サウサンプトン港出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が下船してしまい、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなったため、周辺の監視を、双眼鏡を使わずに肉眼で行うしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となったとする説がある。

 14日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは同日に6通の警告通信を受け取っている。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、さらに混線があり近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン」からの流氷群の警告も見過ごされてしまった。タイタニックの通信士たちは前日の無線機の故障もあり、蓄積していた旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。

 4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。この海域は暖流と寒流がぶつかりちょうど境界面に位置するため、世界的にも海霧が発生しやすい海域として有名であり、タイタニック号が氷山に遭遇したころも直前まで海面には靄が漂っていた。また双眼鏡がなく(但し、双眼鏡自体は『遠くにある物を見る』機能しかもっていない為、タイタニック号が置かれた状況下では、あっても役に立たなかった可能性が高い)、月のない星月夜の海は波もなく静まり返っていたため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。

 氷山の発見後、回避行動をとるが、22.5ノット(およそ秒速11.6m)で航行していたために、船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度であったが、右舷船首のおよそ90mにわたって断続的に生じた損傷は船首の6区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大していった。また、第六区画であった第五ボイラー室の損傷は軽微で、ポンプによる排水も成功したように見えたが、第五・第六区画間の防水隔壁が突如崩壊したことによって完全に浸水した。

 沈没が差し迫ったタイタニックでは女性・子供優先で救命ボートへの移乗が行われた。しかし、当時のイギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また、定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多い。これはタイタニックの船員の多くが未熟で、救命ボートの扱いに慣れていなかったことが主な原因であった。最初に下ろされた中には、定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。

 結局、1500名近い乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きくちぎれ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった。4月の大西洋は気温が低く、人々が投げ出された海は海水温零下2度。乗客の大半は低体温症などでほとんどが短時間で死亡(凍死)したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。


 最初の救助船であるカルパチア号が到着したのは、タイタニック沈没から約2時間後の4時10分頃であった。

【著名な犠牲者】
 ◇エドワード・ジョン・スミス(船長)
 ◇トーマス・アンドリューズ(タイタニックの設計者)
 ◇ウィリアム・トーマス・ステッド(イギリスのジャーナリスト。オカルト信者としても有名で、沈没を予言していたといわれる)
 ◇イジドー・ストラウス(アメリカの実業家)
 ◇ジャック・フットレル(アメリカの小説家)
 ◇ベンジャミン・グッゲンハイム(アメリカの実業家)
 ◇ハリー・エルキンズ・ワイドナー(アメリカの図書収集家)