ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア(Benigno Simeon Aquino
Jr. 1932年11月27日生)
[フィリピン・政治家]
彼に同行したTBSおよび海外のカメラが、ニノイがタラップに降り立った直後の銃声、そして事件後の彼の遺体を捉えていた。だが、彼らは飛行機の出口付近で足止めされたために発砲の瞬間を撮ることはできなかった。
ニノイの最後の言葉は、飛行機を降りる直前、同行していた記者に言った、「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」だった。直後、乗り込んだ兵士が、カメラマンに「You
just take seat!(お前は座っていろ!)」と言ったのが記録されている。そして、ニノイの言葉は、数分後に現実になってしまった。
本当にガルマンが犯人だったのか、犯人ならなぜ撃ったのか、すべては謎に包まれたままだったが、人々はむしろ誰が暗殺を指示したのかということに思いをめぐらせた。CIAやフィリピン共産党からイメルダ夫人まで、疑いの目は向けられた。そのころ、マルコス大統領本人は腎不全を起こして透析を受けており、危険な状態をようやく脱したところであった。のちに、暗殺に使われた銃は、ガルマンが持っていたとされるリボルバーではなく、軍人だけが携帯するコルト・ガバメントであった事が日本音響研究所の鈴木松美の発砲音鑑定により確認されている。さらに、鈴木の分析により、ニノイに同行した兵士たちが「俺がやる」「撃て!」と発砲の直前に叫んでいたことが判明した。
この事件が起こった頃、マルコスは部下に指示を下せる状況ではなかった。10日前に腎臓の移植手術を受けたが、術後の状態が思わしくなかったのである。病床にあってこのニュースを聞いたマルコスは、翌日、体調がすぐれぬままテレビカメラの前で記者会見を行い、調査委員会の設置を指示した。調査委員会は、軍の高官を含む多くの人々を共謀の疑いで告発したが、彼らはすぐに無罪釈放となった。滑走路の警備にあたっていた兵士たちは、無期懲役を宣告され、投獄された。兵士たちは、後に恩赦で懲役22年に減刑されているが、ある兵士は、黒幕はマルコスの親友でコリーのいとこにあたるダンディン・コファンコであったと証言している。
1983年8月31日に行われたニノイの葬儀は、盛大なものとなった。式は朝9時に始まったが、あまりに多くの群集が集まったため、棺が墓地に収められたのは12時間後の夜9時になった。葬儀ミサは、フィリピンのカトリック教会のトップであるハイメ・シン枢機卿が司式し、サント・ドミンゴ教会で行われた。200万人の人々が街頭に出て、ニノイの棺を見送った。さらに、数百万人の人々がラジオで葬儀の実況を聞いていた。ほとんどのマスコミは、政権の不興をかうことを恐れて放送を見送ったが、カトリック教会が後援するラジオ・ヴェリタスただ一局が、葬儀の模様を実況中継した。この葬儀では、人々はマルコス政権への怒りを表立って示すことはなかった。民衆は、むしろ冷静だったが、唯一の例外は棺がフィリピンの英雄ホセ・リサールを記念したリサール公園の中を通ったとき、記念碑のところにあった国旗が民衆によって力ずくで弔旗にされたことであった。
ニノイの暗殺は、反マルコスの機運を爆発させることになった。それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が、一夜にして全土を覆うようになっていた。首都メトロ・マニラでは、貧富の差を越えて多くの人々が立ち上がった。貧窮にあえぐ民衆だけでなく、実業家たちも、いまやマルコスの政治に限界を感じていたのである。さらに、暗殺現場に居合わせたカメラマンの映像を基にしたTBSの検証番組が、海賊版としてフィリピンで上映されたことも拍車をかけた。
皮肉なことに、最大の政敵が殺害されたことが、逆にマルコスが政権内を完全にコントロールしきれていないことの証左となり、マルコスの弱さを露呈することになった。フィリピン全土に波及し始めた政情不安は、アメリカ合衆国の注目をひいた。やがて世界がフィリピンの動向に注目し始めると、イメルダ夫人の豪勢な生活スタイルやマルコス大統領の独裁体制に非難が集中するようになった。
親米のフィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、アメリカとしては絶対に避けたいものだった。ロナルド・レーガン大統領もマルコス大統領に対し、ニノイ暗殺の責任があるといって非難するようになったが、西側諸国の盟友だったマルコスを見捨てるほど冷酷でもなく、後に国外へ逃れたマルコスをハワイに迎え入れている。
ニノイが暗殺されると、その遺志を継ぐことになった未亡人のコラソン・アキノが、にわかに注目の人となった。1986年に、マルコスは、国民の不満を解消するため、大統領選挙を行わざるを得なくなっていたが、そこに立候補したコリーは徹底して反マルコスキャンペーンを行い、国民の大多数の支持を得た。選挙期間中、コリーはフィリピン全土を回って支持を訴えた。
1986年2月7日、ついに投票が行われた。選挙管理委員会はマルコスが勝利したと発表したが、コリーと支持者達は明らかな不正が行われたとしてこれを受け入れず、抗議した。結果的に、この抗議を支持した民衆が立ち上がり、軍の高官たちもマルコスを見放したことで、マルコスとその一族はフィリピンを追い出されてハワイに向かった。これをエドゥサ革命という。コリーは新大統領に就任し、フィリピンの新時代が到来した。
時代が彼を殉教者にしたともいえる男、ニノイ・アキノは今でも根強い人気を誇っている。500ペソ札にはニノイの肖像が印刷されており、ニノイが凶弾に倒れたマニラ国際空港は後にニノイ・アキノ国際空港(NAIA)と改称された。ニノイの息子ベニグノ・アキノ3世はタルラック選出の上院議員となり、2010年の大統領選挙に出馬、当選した。娘のクリス・アキノは女優としてテレビや映画で活躍している。
1983年8月21日死去(享年50)