オリーヴ・トーマス

オリーヴ・トーマス(Olive Thomas 本名:オリーヴァ・R・ダフィー 1894年10月20日生)
 [アメリカ・女優/ソーシャライト]



 ペンシルベニア州シャルルロアのピッツバーグ地区で労働者階級の家庭に生まれる。彼女がまだ若い頃に父親が他界し、家計が逼迫したので母親と2人の弟、ジェームズとウィリアムの生活を支えるために学校を辞めざるを得なくなった。1911年4月、16歳の時に小さな工場町であるマッキーズロックスのバーナード・クルー・トーマスと結婚。伝えられるところでは2年の結婚期間中、彼女はピッツバーグのカウフマンデパートの店員として働いていた。離婚後は家族と共にニューヨークに移り、ハーレムのデパートに勤めた。

 1914年、著名な商業画家ハワード・チャンドラー・クリスティが催した「The Most Beautiful Girl in New York City(ニューヨークで最も美しい女の子)」コンテストの新聞広告に応募して優勝。その後もう1人の商業画家ハリソン・フィッシャーのモデルを務め、これは雑誌「サタデー・イヴニング・ポスト」の表紙を飾った。フィッシャーはトーマスをジーグフェルド・フォリーズに雇ってくれるよう、フローレンツ・ジーグフェルドに推薦状を書いた。彼女はニュー・アムステルダム劇場の屋上庭園で営業時間後に行われたリスケイ・ミッドナイト・フロリックに頻繁に出演した。この時期に他のフォーリーズのレビューショーに出演していた女優や女性ダンサーと同じように、彼女も当たり前のようにジーグフェルドの愛人になっていた。ミッドナイト・フロリックは、主として高名な男性パトロンたちが若く美しい女優たちに多くの金品を贈るショーであった。ほどなく魅力的なトーマスは注目を集めるようになった。

 急激に高まった名声の一端として、ペルーの画家アルベルト・バルガスのヌードモデルを務め、女優としてインターナショナル映画社と契約を結んだ。トーマスは以後4年間にわたり20本以上のハリウッド映画に出演した。彼女は結婚後のオリーヴ・トーマスの名で、映画『A Girl Like That』により銀幕デビューを果たした。1916年10月、トーマスはトライアングル・ピクチャーズへと移籍した。その後すぐに1年前から事実婚状態であったジャック・ピックフォードとの婚約のニュースが流れた。1917年の映画『Madcap Madge』のベティ役はトーマスの最も成功した仕事の1つと認められている。

 1918年12月、トーマスはマイロン・セルズニックからセルズニック・ピクチャーズ社と契約するよう説得された。彼女はより重要な役を望んでおり、夫と共に同じ会社と契約を結べば、より多くの影響力を行使できると考えた。彼女は直ぐにセルズニックの最初のスターになり「魅力的な魔性の女」のイメージを作り上げた。

 長年ピックフォード夫妻は一緒に休暇をとろうと考えていた。ピックフォードとトーマスは双方が絶えず巡業しており、一緒に過ごす時間がほとんど無かった。結婚生活は破綻をきたしていたが、2人は2度目の新婚旅行に出かけることにした。1920年8月、2人は休暇と何本かの映画の準備を兼ねてフランスのパリに向かった。1920年9月4日の夜に夫妻は外出し、パリのモンパルナス・クォーターの有名なビストロでエンターテインメントとパーティーの夜を過ごした。午前3時頃ホテル・リッツの部屋に戻り、酔って疲れていたトーマスは、夫の慢性梅毒のために処方された塩化第二水銀溶液を誤って大量に摂取した。液体は局部に用いるためのもので、摂取するためのものではなかった。彼女はビンには飲料水か睡眠薬が入っていると思っていた。ラベルがフランス語だった事が誤りを助長した可能性もある。彼女は致死量を摂取してしまっており、パリ郊外ヌイイのアメリカン・ホスピタルに搬送されたが、5日後に息を引き取った。死の直後から彼女は自殺したか、あるいは殺されたのだという噂が流れ始めた。検死と並行して警察の捜査も進められ、トーマスの死は不慮の事故であったと断定された。

 ピックフォードは9月13日付ロサンゼルス・エグザミナー紙でその夜の事を証言している。「我々は午前3時頃にホテル・リッツに戻りました。私は既にロンドン行きの飛行機を予約していて、日曜日の朝に発つ予定でした。双方とも疲れ果てていて、少し飲んでいました。私は今から荷物をまとめず、出発前に早起きして始めた方がよいと主張し、すぐに寝ました。彼女はやきもきして歩き回り、母親への手紙を書きました。彼女は洗面所にいて、突然『なんですって!』という悲鳴をあげました。私はベッドから飛び起きて、彼女に駆け寄り抱きとめました。彼女は何がビンに入っていたか気づいて私に泣きつきました。私がそれを拾い上げて読むと『毒物』と書かれていました。トイレ用の液剤でフランス語のラベルが貼られていました。私は彼女がしてしまった事を悟り、医者を呼びました。その一方で彼女を吐かせるために強制的に水を飲ませました。彼女は『ああ、なんて事かしら。毒を飲んでしまったわ』と叫びました。私は毒が中和される事を願って卵白を彼女ののどに押し込みました。医者がやって来て、私が抱いているオリーヴの胃を3回ポンプで洗浄しました。私は朝9時に彼女をヌイイ病院に連れて行きました。チョート医師とウォートン医師が彼女を担当しました。彼らはオリーヴがアルコールに溶解した塩化第二水銀を飲み込んだのだと話しました。それは錠剤を飲み込むより10倍も悪い状況だと。彼女は死など望んでおらず、誤って毒物を飲んだのです。我々は2人とも結婚した日からお互いに愛し合っていました。1度に何ヶ月も離ればなれになっていた事は、お互いへの愛情に悪影響は及ぼしませんでした。彼女は死ぬ事など考えておらず、死の直前まではっきりと意識があって、看護師に自分が完全に回復するまでアメリカに付いて来てほしいと頼んでいました。彼女は絶えず私を呼びました。私は昼夜を問わず、彼女が亡くなるまでそばにいました。医師たちは最後の瞬間まで望みを捨てませんでした。彼女の腎機能が停止しているのに気づくまでは。そして望みは絶たれました。しかし医師たちは彼らがこれまでに診たどんな患者よりも、彼女は毅然として戦ったと話しました。彼女は50に1つの確率にかけて生に執着しました。最後の2日間は、よりしっかりしているように見えました。彼女は意識があり、母親に自分が快方に向かっていて、家に帰ると言っていました。『これはすべて間違いよ、愛しいジャック』と彼女は言いました。しかし私には彼女が死にかけているのが判りました。彼女は最後の12時間は皮下注射だけによって生命を維持していました。彼女が最後に認識したのは私でした。私は彼女のかすんだ目を見て、彼女が死に瀕している事を実感しました。私はどんな気分かと尋ねました。彼女はこう答えました。『かなり弱っているけど、しばらくすればすっかり良くなるわ。心配しないで、ダーリン』これが彼女の最後の言葉でした。私は彼女を腕に抱き、1時間後に彼女は永眠しました。我々がニューヨークを発った時から流れている、乱痴気騒ぎやコカインや家庭内の争いに関する全ての記事や噂は偽りです」

 ピックフォードは彼女の遺体をアメリカ合衆国に戻した。1920年9月29日、トーマスのために米国聖公会による告別式がニューヨークのセントトマス教会で行なわれた。ニューヨーク・タイムズによると、教会は完全に立錐の余地も無くなり、警察の護衛が必要であった。数人の女性が式中に気絶し、数人の男性は棺を見るために突進して帽子が押しつぶされた。トーマスはブロンクス区のウッドローン墓地に埋葬された。1920年11月20日に彼女の個人資産は遺産管理のために売却された。トーマスの亡霊がニューヨーク市のニュー・アムステルダム劇場に出没すると言われている。

 1920年9月10日死去(享年25)