矢川澄子

矢川澄子(やがわすみこ 1930年7月27日生)
 [作家/詩人]



 早くから天才少女として注目され、没後は「不滅の少女」と呼ばれた。教育学者矢川徳光の五人姉妹の次女として東京に生まれる。1943年、府立第十一高等女学校に入学。1948年、同校を5年で卒業し、旧制の東京女子大学外国語科に入学、1951年に卒業。岩波書店の社外校正者を経て、1953年9月、新制学習院大学英文科3年に後期から編入学するも、まもなく独文科に転じ、関泰祐教授に師事。1954年、同人誌「未定」に参加。1955年3月、学習院大学独文学科卒業。同年4月、東京大学文学部美学美術史学科に学士入学したが1958年に中退。この間、1955年4月、岩波書店校正室のアルバイトで知り合った澁澤龍彦と交際を始める。1959年1月、澁澤龍彦と結婚。鎌倉市に住む。結核で正業に就けない澁澤のため、看護婦代わりに献身的に尽くしていた。このころ、澁澤の要求で4度にわたって妊娠中絶を行い、その結果、子供を産めない体となった。1966年、矢川の下訳に基づく澁澤訳「O嬢の物語」(ポーリーヌ・レアージュ)が刊行される。この年、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』を種村季弘との共訳で美術出版社から上梓。1968年4月、澁澤と協議離婚。離婚の原因については、俳人加藤郁乎と矢川との不倫が関わっていたとも言われている。澁澤の側も浮気をしており、そのことは澁澤の母も知っていたが、矢川が自分から家を出たことに対しては、澁澤の顔をつぶす行為として澁澤の母から許されなかった。離婚後は澁澤から、かつて二人で撮影したツーショットをことごとく鋏で真っ二つに切断されて送りつけられるという嫌がらせを受けた。また、離婚時には一切の財産分与を受けられなかった。

 38歳にして自活を余儀なくされるようになったため、旧友の堀内路子の紹介で福音館書店の松居直と会い、ヤーノシュ『おばけリンゴ』を翻訳。1969年に同書を福音館書店から刊行し、文筆生活に入る。以後、英仏独の翻訳家としても活躍。1980年、谷川雁の招きで信州黒姫山(長野県)に移住。矢川は谷川を「神様」と呼ぶほどに崇拝していた。1989年から日本ファンタジーノベル大賞の選考委員を務める。1996年8月、高橋たか子は黒姫の矢川宅に2泊したとき「たか子さん、自死ということを考えない?」と矢川から質問されている。また2001年には、松山俊太郎が矢川から「死にたい」との言葉を聞いている。2002年5月29日朝、黒姫の自宅で縊死しているのが宅配便の配達人に発見される。扉は施錠されず、原マスミの音楽のカセットテープがリピートしていた。同年刊行の『文藝別冊 澁澤龍彦』の澁澤年譜に、矢川のことが一切抹消されているのを知ったのがきっかけではないかという推測もある。死の前日、原マスミや知久寿焼など知人たちに挨拶の電話をしていた。「すべての妹たちへ」と題する遺書が残されていたが、内容は遺族の意向により公表されていない。

 2002年5月29日死去(享年71)