新井将敬

新井将敬(あらいしょうけい 1948年1月12日生)
 [政治家]



 大阪府生まれ。大阪市立菅南中学校を経て大阪府立北野高等学校卒業。16歳の時朝鮮籍から日本に帰化。帰化前の名前は朴景在(パク・キョンジェ)。東京大学理科一類に入学。在学中は三島由紀夫やカール・マルクスに傾倒していた。衆議院議員になってからも学生運動に関するインタビューなどを受けている。東大経済学部卒業後、一時新日本製鐵に勤務。兵庫県の広畑製鉄所に配属されていた。その後、1973年大蔵省に入省。

 キャリア官僚としての経歴は、29歳で酒田税務署長を務め、銀行局課長補佐に就任する。当時、勢力拡大のため若手官僚を取り込んでいた渡辺美智雄の目にとまり、1980年渡辺が大蔵大臣に就任すると秘書官に抜擢され活躍する。代表的なものが、証券界が渇望していた小口預金的商品「中期国債ファンド」の導入である。銀行筋からの強い抵抗を押し切り、これに成功した。このときの証券業界の幹事が日興証券(現SMBC日興証券)であり、これを契機に両者の深い関係が始まった。

 1983年の第37回衆議院議員総選挙に自由民主党・中曽根派新人候補として旧東京2区から初出馬するも落選。1986年の第38回衆議院議員総選挙で初当選し以後連続4回当選する。自民党では中曽根康弘→渡辺美智雄派に所属した。

 1992年に東京佐川急便事件が発覚すると、疑惑が取りざたされた金丸信・自民党副総裁を激しく批判し、金丸と竹下登に対して議員辞職を要求する。政治改革・小選挙区制導入の是非が政局の焦点になると、改革派の若手論客としてテレビに出演し、脚光を浴びるようになる。新井の言説は歯切れがよく、金丸が率いていた竹下派の議員だけでなく、小選挙区制導入反対の急先鋒だった小泉純一郎や石原慎太郎をも「守旧派」と断じ批判した。1993年の自民党の分裂では自民党に残るが、細川護煕の後継をめぐる渡辺美智雄擁立劇では先行離党し、柿沢弘治、太田誠一、佐藤静雄、山本拓、高市早苗、米田建三らと自由党を結成する。その後、院内会派・自由改革連合を結成。

 1994年12月、新進党結党に参加し、新進党東京都連では幹事長を務めたが、小沢一郎の党運営への反発から1996年6月に離党する。その後、初の小選挙区制で行われた第41回衆議院議員総選挙にも無所属で出馬し、自民党公認を得ていた中選挙区時代からの対立候補・大内啓伍を破って再選。選挙後、同じく新進党を離党し無所属で再選した船田元、石破茂らと新会派「21世紀」を経て自民党に復党した。復党後はかつて所属していた渡辺派ではなく、三塚派に所属した。同派入りは、当時の三塚派幹部だった亀井静香の働きかけによるものである。

 その後、一連の証券スキャンダルでの借名口座による株取引が問題化。更に日興証券(現:SMBC日興証券)に利益要求していたという疑惑も浮かび上がる。保坂展人によれば、新井は自身の逮捕許諾請求をめぐる議院運営委員会において当時の法務大臣下稲葉耕吉に抗議したとされている。1998年2月19日、衆議院議院運営委員会で逮捕許諾決議が可決されて本会議で逮捕許諾決議が採決される直前に「最後の言葉だけは聞いてください。私は潔白です」と発言した翌日、東京都港区のホテルパシフィック東京23128号室で首を吊って死亡しているのを発見された。部屋にはウイスキーの空き瓶が沢山落ちていたという。新聞報道や警察は自殺と判断したが、動機や他殺を疑うなど諸説がある。夫人宛と亀井静香宛ての遺書が残されていたとの説もある。真理子夫人は当初、「夫の潔白を証明するために出馬を決心した」と東京都第4区の補欠選挙に意欲を見せていたが、結局は出馬しなかった。

 1998年2月19日死去(享年50)