吹上佐太郎

吹上佐太郎(ふきあげさたろう 1889年2月生)
 [連続強姦犯]



 京都府生まれ。父親は大の酒好きで、酔うと寝ている子供たちに構わず性交を行っており、それを見ていた佐太郎は7歳頃から妹の性器を弄繰り回していた。9歳の時には家から追い出され奉公に出されたが金を持ち逃げし首になる。その後、彼は職を転々とした。11歳になる頃には17~8歳の女中二人がいたが、そこでは一緒の部屋で寝る事が行われていた。そのため、毎晩のように一人の色好みの女中に無理矢理少年姦をされていた。毎晩、18歳の女中の慰めになったり慰められていたりしたのであるが、その性遊戯がばれ首になった。次のところでは5円を盗み、12歳で監獄に入る。だが、監獄の方がいい生活であった。

 大阪で浮浪者、野宿生活となり泥棒集団の仲間に入るが、逃げ出す。京都で泥棒をし、13歳で再び監獄に戻される。この13歳の時期男色に耽った。刑務所を出ると家族は四国で乞食をしていたが、泥棒の金で家を借り一家を住まわせた。15歳の秋には初めて少女の味を知った。だが、名古屋に向かう途中自転車を盗んだ罪で刑務所に戻る。その後、出所し京都に戻った彼は17歳の時に出会った女性に一年間性的関係を強いられ、今までの主に年上の女性に玩具にされた生活は一転した。その女性の娘である11歳の娘に手を出し、近所の娘や女工を強姦した。その後、徴兵検査を受ける直前、京都の金閣寺裏山で少女に強姦殺人を行い無期懲役の判決を受け10年弱拘置されたが恩赦により減刑される。


 1922年の仮釈放後はトンネル工事作業員や田舎廻りの劇団員などになったがいずれの職も長続きせず、仕事を求め流れ歩いていた。そして、抑圧された34歳の性欲は留まるところを知らなかった。関東を中心に茨城、千葉、群馬、長野、埼玉、神奈川などを転々とするが、至るところで犯行を行った。11歳から15歳までの少女16人を強姦し、うち4人を殺害。15歳以上の少女は11人を強姦し、うち2人を殺害した。相手が拒否、反抗の態度を示した場合殺害したという。

 佐太郎は強姦しただけの相手を「生き別れ」、絞殺した相手を「死に別れ」と表現した。1923年6月群馬で12歳の少女を絞殺。8月には15歳の少女を長野で殺害。この一週間後、11歳の少女を群馬で殺害。1924年7月28日に佐太郎は東京で逮捕され、13人を殺害した事を自供したが、この人数に関しては刑事に「騙された」と本人が述べている。予審終結決定では3件の強姦殺人しか認められなかったが、これに対して佐太郎は「6件」だと主張し、裁判官を嘲笑した。結局、前橋地裁で死刑判決が下り、1926年7月2日に上告は棄却され、死刑は確定。死刑確定2ヶ月後の9月28日に絞首刑は執行された。

 佐太郎は死刑囚となって猛勉強し、西洋の哲学書、文学を読破し、原稿用紙3000枚という膨大な自伝『娑婆』を残したが、『娑婆』は発売と同時に発禁処分となった。

 1926年9月28日死去(享年37)