ベニー・パレット

ベニー・パレット(Benny Paret 本名:ベルナルド・パレット 1937年3月14日生)
 [キューバ・プロボクサー]



 サンタ・クララ生まれ。貧しい砂糖黍畑の労働者からボクシングの世界へ。1955年プロ入り。1960年5月27日、ドン・ジョーダンを判定で破り世界ウェルター級タイトル獲得。同年12月10日、フェデリコ・トムソンを判定で退け初防衛に成功。2度目の防衛戦で迎えた相手は、技巧派エミール・グリフィスであった。1961年4月1日に行われたこの試合で、パレットは13回KO負けを喫しタイトルを奪われてしまう。しかし同年9月30日、パレットはグリフィスに雪辱、判定で王座を奪回した。

 そして翌1962年3月24日、両者は雌雄を決すべくマディソン・スクエア・ガーデンで対決、パレットはグリフィスの激しい連打を浴び、KO負けを喫した。失神したパレットの意識はそのまま戻ることなく、10日後の4月3日に死亡。世界王者として最初の死亡事故であった。

 試合前の計量時にパレットがグリフィスに対しゲイを意味するスラングを使って挑発。一説によればこれがグリフィスの「憎悪」に繋がったのではないかといわれている。この「憎悪」の有無が後に問題になった。12ラウンド目に入り、コーナーに追い詰められたパレットはグリフィスから20発近く打たれ続けKO負けを喫した。パレットは当時の3本ロープの間から半身を外へ出した格好で、剥き出しの鉄柱でしかなかった当時のコーナーポストとグリフィスのパンチに挟まれるようにして衝撃を受けており、これが直接のダメージを招いた原因とされた。

 当時、アメリカではボクシングの人気が高かったため大きな問題になり、ボクシング禁止論まで飛び出した。この不幸な事故を機に、コーナーポストにはビニールカバーを施すことが義務付けられ、それまで3本であったリングロープは4本に改められることとなった。グリフィスは事故後に不眠症になるほど悩み苦しんだといわれ、それでも現役を続行し数多くの名勝負を行った。

 1962年4月3日死去(享年25)