クラレンス・ホワイト

クラレンス・ホワイト(Clarence White 本名:クラレンス・ジョセフ・ルブラン 1944年6月7日生)
 [アメリカ・ミュージシャン/ギタリスト]



 1944年、メイン州ルイストンでフランス系カナダ人の両親の元に生まれる。一流のブルーグラスミュージシャンであった父親の影響で一家は音楽に囲まれており、クラレンスも幼少の頃からウクレレやバンジョーに親しみ、8歳ごろにギターを始める。1954年に一家はカルフォルニアに親戚を頼って移住。その地でクラレンスは兄のローランド・ホワイト、エリックと共にブルーグラスバンド「スリー・リトル・カントリー・ボーイズ」を結成し演奏活動を始める。1962年にバンド名を「ケンタッキー・カーネルズ」にしてファースト・アルバムを録音。この頃にはブルーグラス奏者として彼のギタースタイルはほぼ完成されていた。その後2~3年の間ケンタッキーカーネルズは精力的に活動する。1964年にはアルバム「アパラチアン・スウィング」を発表。しかし正統派のブルーグラス音楽は次第に時代遅れとなり業績不振のためグループは1966年に解散した。

 その後、クラレンスはエレクトリックギターを演奏するようになり、スタジオミュージシャンとしてたくさんのレコーディングセッションで活動する。代表的なものにはリック・ネルソン、アーロ・ガスリー、モンキーズ、ジャクソン・ブラウンなどのアルバムがある。レコーディング・セッションの合間に伝説的グループ「ナッシュビル・ウェスト」で活動。その過程でロックに接近し1968年にザ・バーズに加入。1973年の解散までに5枚のアルバムを制作した。クラレンスがバーズに参加したことによりバンドは圧倒的なライブパフォーマンスが可能となり、そのカントリーフレイバーあふれるギターフレーズは多くの後進ギターリストたちに影響を与えた。バーズのアルバムではボーカルを担当している楽曲もある。しかしバンドのフロントマンであるロジャー・マッギンと他のメンバーとの間で音楽的方向性に関して意見が対立し始め、ロジャー・マッギンはオリジナルメンバーでのバーズ存続を強く求めるようになり1973年にバンドは解散した。その後、クラレンスはセッションギタリストとして活動を続けると同時に、兄弟たちとブルーグラスバンドを再開する。ほかにもミュールスキナーなどのバンドで活躍した。

 1973年7月15日夜、カルフォルニア州パームデールのナイトクラブでの仕事を終え、車のトランクに機材を詰め込んでいる時に、泥酔した日系人の女性ヨーコ・伊藤が運転する車に撥ねられて、翌15日に29歳の若さで亡くなった。兄エリックの目の前で起きた事故だった。

 1973年7月15日死去(享年29)