青木岩雄

青木岩雄(あおきいわお 1901年9月3日生)
 [テニス選手]



 兵庫県出身。慶應義塾大学卒業。1920年代から1930年代前半にかけて、日本男子テニス界を代表した選手の1人であった。主な成績は、1924年の第3回全日本テニス選手権男子ダブルス優勝、1932年のウィンブルドン選手権男子シングルス4回戦進出などがある。彼は三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に勤務し、1930年7月から1935年3月まで銀行のロンドン支店にいたことから、イギリス開催のテニストーナメント、とりわけウィンブルドン選手権で優れた戦績を出した。青木のテニスは、フォアハンド・ストロークに多少の弱点はあったが、バックハンド・ストローク、ボレー、スマッシュのいずれにもダブルスの分野で力を発揮し、とりわけロビングの技術に優れていた。

 1939年4月に突然の病気が彼を襲う。青木が腹部の痛みを訴えたのは、4月19日早朝の出来事だった。最初は虫様突起炎(急性虫垂炎)と診断され、直ちに開腹手術を受けたが、虫垂炎ではなく「絞扼性腸閉塞症」だったことが判明。4月27日に2度目の手術が行われたが、5月2日午後9時9分、青木は腸閉塞症のため37歳の若さで亡くなった。発病1ヶ月前に、朝日新聞のクラブ対抗戦でダブルスの試合に出場したのが、最後のテニスになった。葬儀は大阪市内の斎場で行われ、遺骨は東京の両親のもとに運ばれた後、鶴見總持寺にある青木家の墓所に埋葬された。

 青木の早すぎる死去を悼み、友人たちの寄稿による追悼録が『青木岩雄君』という書名で1940年9月に刊行された。彼と親交のあった140名以上の追悼文を集め、総計503ページにのぼる詳細な記録が残された。その中には、慶應義塾大学時代のライバル選手たちや銀行勤務時代の同僚たちのみならず、彼のイギリス生活中にウィンブルドン選手権などで交わった外国人選手たちや、彼の最後の病床を看取った主治医の日誌も含まれている。

 1939年5月2日死去(享年37)