林承賢(はやししょうけん 本名:林養賢 1929年3月19日生)
[学僧]
鎮火後行われた現場検証で警察は不審火と断定、寝具などの遺留品が付近で発見され、林は犯行を自供し逮捕された。取調べによる供述では、動機として「自分でも現在の自分の心が割りきれないが、火をつけたことは悪いとは思わない。金閣の美しさを求めて毎日訪れる参拝者の群を見るにつけて、私は美に対し、またその階級に対して、次第に反感を強くしていった。世の中の美は自分にとって醜いと感じたが、反面その美に対する妬みを押さえることができなかった。これは自分たち若い世代の者が、悪い環境におかれているためかもしれない。あるいは、自分の吃りからくる精神的な苦しみからかもしれないが、この考え方が醜いと感ずると同時にこれは強く打ち消し、これでいいのだという矛盾した考え方に悩まされた。その挙げ句、悩む自己に解決をつけるため、社会革新の立場から実際行動に移るべきだと決意した。」と述べ、複雑な感情が入り乱れていたとされる。そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された。長編小説では三島由紀夫『金閣寺』や、水上勉『五番町夕霧楼』『金閣炎上』がこの事件の題材になっている。三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。また、事件発生当時に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。
事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され、捜査官から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、実家がある大江への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺している。母親は警官に「あの子は国賊です」と漏らしていたという。
1950年12月28日、林は京都地裁に懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院した後の1956年3月7日に病死した。親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。
1956年3月7日死去(享年26)