川合稔(かわいみのる 1942年12月9日生)
[レーシングドライバー]
事故地点はヘアピンに向けて減速しながら曲がる右カーブだったが、急ブレーキをかけた跡のブラックマークがコースサイドまでまっすぐに伸びていた。マシントラブルでスロットルが戻らず、減速できないまま時速200km以上のスピードでコースアウトしたのではないかと見られている。セーフティゾーンがもしあったなら、スピードが吸収されて単なるクラッシュで済んでいたとも言われた。トヨタ・7ターボに関して、当時チーム・トヨタで川合と共に活躍していた高橋晴邦は、「あのまま開発が進んでいたら、次に死ぬのは自分だったかもしれない」「あの時代には、早すぎたマシンだった」と語っている。
トヨタは、契約ドライバーの福沢幸雄(1969年2月事故死)と川合を立て続けに失い社会批判を浴び、1971年、新たにTMSC-Rというレース活動専門の別会社を設立し、この会社を介して選手と契約を交わす形を採った。また、トヨタ社内のレーシングカー開発部門も大幅縮小され、以後しばらく市販車をベースにチューニングしてのレース活動が中心になった。
結婚からわずか半年後に夫が事故死するという悲劇に見舞われた小川は芸能活動を休止。1973年、映画に出演し復帰はしたものの、同年に芸能界から引退した。
1970年8月26日死去(享年27)