ピート・ハム

ピート・ハム(Pete Ham 本名:ピーター・ウィリアム・ハム 1947年4月27日生)
 [イギリス・歌手/ギタリスト]



 ウェールズ南部のスウォンジに生まれる。1961年ごろに地元でロックグループ「パンサーズ」を結成するが、度重なる改名とメンバーチェンジの末に、1965年に「アイヴィーズ」として再出発した。ザ・モジョスのマネージャー、ビル・コリンズのマネジメントを得て、アイヴィーズは1966年にロンドンに上京し、3年間イギリス国内で巡業を続けた。この頃ピート・ハムが作詞作曲に特に取り組むようになったのは、コリンズのお蔭でレヴォックスの録音機材が使えるようになって刺激を受けたからである。アイヴィーズは、1968年にマル・エヴァンズの注目を惹き、多数の自宅でのデモテープによってビートルズの4人からとりわけ創作力を買われるところとなり、ついにアップル・レコードと契約を結んだ。

 シングル『マジック・クリスチャンのテーマ(ポール・マッカートニー作曲)』の発売に合わせて、バンドはアイヴィーズからバッドフィンガーに改名した。このシングルは世界中でトップテン入りするヒット曲になったが、当初ハムは、アイヴィーズ時代の楽曲に自信を持っていたため、オリジナル曲以外で売り出されることに抵抗している。だが、ヒットしそうなシングル曲による飛躍のための効果というものを間もなく認識した。ハム本人の創作の苦労は結局のところ報いられ、『嵐の恋』は1970年代後半にリリースされると、世界中でトップテン入りの快作となった。さらに『デイ・アフター・デイ』や『ベイビー・ブルー』を書き上げ、世界中でヒットを連発した。ハムの最も広く普及した楽曲は、バンド仲間のトム・エヴァンズ(後に自殺)と合作したバラード、『ウィズアウト・ユー』である。『ウィズアウト・ユー』は、ニルソンのカバーが世界中のチャートで1位を獲得してからは、史上最高のバラードの定番の一つとして、ジャンルを問わずに多数の歌手によってカバーされている。1973年には、グラミー賞にノミネートされるとともに、アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した。

 1972年、片やアップル・レコードが崩壊の危機にあり、片やピート・ハムのバンドが破竹の勢いに見えたことから、バッドフィンガーはワーナー・ブラザーズ・レコードに引き抜かれた。バッドフィンガーがアップルと契約期間中は、元ビートルズのジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』やリンゴ・スターのシングル『明日への願い』のセッションでハムも演奏に加わっているが、その他のセッションでもハムの名前は記載されなかった。ハムの人間性はおおむね、物腰が柔らかくて気だてが優しく、人前では少しおどけたところもあったが、きわめて柔順で謙抑だったと評されている。また、勤勉さも言及されている。

 ワーナー・ブラザーズに移籍後の1973年から1975年にかけてバッドフィンガーは、バンド内部や経理上、マネジメント上の多くの難題に巻き込まれ、音楽活動がぱっとしなくなった。1975年までに、ハムはびた一文も所得が入らず、新マネージャーのスタン・ポリーからは音信不通というありさまで、失意の果てに自宅ガレージで首吊り自殺を遂げ、翌朝妻のアンによって変わり果てた姿となって発見された。前日にトムと共にウィスキーをあおっていたこともあり、血中アルコール濃度は0.27パーセントだったという。28歳の誕生日を間近に控えての出来事だった。死の前日、自宅に戻る際にトムに残した最後の言葉は、「気にするな、逃げ出す方法はわかってるから(Don’t worry, I know a way out.)」だった。身重のアンは、ハムの死から1ヶ月後に娘のペトラ・ハムを出産した。

 ハムの死は葬り去られる形となった。元ビートルズのメンバーは誰一人として公式に発言せず、アップル・コアもワーナー・ブラザーズ・レコードもハムの死について公式な声明を出さなかった。ハムの書き置きはマネージャーのポリーを非難しており、「アン、お前を愛してる。ブレア、君が好きだ。僕は人を愛し信頼してはいけない人間なのだろう。これがより良い選択だ。ピート。追伸。スタン・ポリーは人でなしの畜生だ。あいつを道連れにしてやるさ」とある。ポリーのクライアントだったアーティストの多くが、長年にわたってポリーの不正を非難してきた。ハムの死から10年以上が過ぎてから、ポリーは横領やマネー・ロンダリングの告発に対して、不抗争の答弁を申し立てたが、損害賠償は1件も行なわなかった。

 66回目の誕生日に当たる2013年4月27日、故郷のスウォンジにピート・ハムを記念するブルー・プラークが設置され、娘のペトラが除幕式を行った。

 1975年4月24日死去(享年27)