山地悠紀夫

山地悠紀夫(やまじゆきお 1983年8月21日生)
 [殺人犯]



 山口県出身。父親は様々な職を渡り歩いていたが、酒癖が悪くしばしば妻や彼に対し暴力を振るっていた。1995年1月に父親は肝硬変で死亡したが、その後は母親と2人暮らしであった。学校では目立たない存在で、友人も少なかった。小学生時代は、家庭科の教材費を支払うことが出来ず、それを理由に教師からは調理実習で作った料理を食べる資格がないと決め付けられ、作った料理をゴミ箱に捨てさせられたこともあった。中学校時代は「悪魔」と呼ばれたこともあった。中学2年の頃から不登校気味となり、中学3年には3分の2近くを欠席し、修学旅行などの行事にも参加しなかった。

 卒業後は高校へは進学せず、しばらく就職先が見つからなかったが、知人の紹介で新聞販売店で働き始めた。だが母親には借金があり、取り立てに迫られたり、家賃や水道料金を滞納していた。生活保護も申し込んだが認可されなかった。6月になって借金のことを知ったが、そのときには既にもうどうしようもないところまで来ていた。事件直前の7月27日と7月28日には仕事を初めて無断欠勤している。その際は同僚が迎えに行き28日の途中から出勤したが、夕方には「母親が借金している」と悩みながら同僚に話しかけていた。また母親には再婚話があり、同僚に対し「僕は邪魔者だから家を出る」とも話していた。

 そんな中、2000年7月29日午後9時ごろ、母親と口論になる。きっかけは交際したいと考えていた女性の携帯電話に、母親が無言電話をかけたためであった。そのことを母親に問いただしたが認めず、母親が「出て行け」などと言ったことに腹を立て、借金の事も絡んで口論となり暴行を加えた。そして、頭に血が上り金属バットで母親の頭と顔と胸などを殴り倒し母親を滅多打ちにし殺害した。7月31日午前1時頃、自ら「母親を殺した」と110番通報をし、殺人容疑で緊急逮捕された。検事に母親殺害の際に射精した事を述べたが、これは「返り血を流すためシャワーを浴びたら、射精していたことに気づいた」ということであった。同年9月に中等少年院送致の保護処分を受けた後、2003年10月に仮退院、2004年3月に本退院したが、この際、精神科医師は、彼が「法律を守ろうとはそんなに思っていない」と話していたことなどから、更生に疑問を抱き意見を提示していた。

 2005年2月ごろパチスロ機を不正操作しコインを盗むグループに加わるが、そのグループが福岡から大阪に活動拠点を移した同年11月には、稼ぎが上がらず、離脱したい旨を仲間に伝えグループの活動拠点のマンションを出た。離脱後、近くの境内や公園などに野宿をしていたが、生活のめどが立たない中で、母親殺害の際に感じた興奮と快楽を再び得るためにターゲットを物色していた。

 そして、大阪市浪速区のマンションに住む姉妹に狙いを定め、17日午前2時半ごろ、まず飲食店での仕事を終えて帰宅した姉(27)がドアを開けた瞬間に背後から襲撃。ナイフで胸を突き刺し、片足のズボンと下着を脱がせ強姦、跡を残さないための工作を行った。約10分後には妹(19)が帰ってきたためナイフで胸を突き刺し、姉のすぐ側で強姦した。その後、ベランダで煙草を吸った後に姉妹の胸を再び突き刺してとどめを刺し、室内に放火し現金5000円や小銭入れ、貯金箱などを奪った上で逃走した。2人は病院に運ばれたが搬送先で間もなく死亡した。

 同年12月5日、建造物侵入容疑で逮捕される。12月19日には強盗殺人容疑で再逮捕。この逮捕で、彼が少年時代の山口母親殺害事件を起こしていたことがメディアで取り上げられた。凶器の刃渡り12センチのナイフは供述通り、犯行現場マンションから約400メートル離れた神社の敷地内の倉庫で発見された。警察の調べに対し彼は「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」「誰でもいいから殺そうと思った」と供述、弁護士には「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」と述べた。

 住居侵入、強盗殺人、強盗強姦、鉄砲刀剣類所持等取締法違反、建造物侵入、非現住建造物等放火の罪で起訴され、2006年5月1日に初公判。初公判で彼の供述が検察により読まれたが、その内容は刺す度に性的興奮が訪れたというものであった。5月12日、第2回公判が開かれたが、被告人質問で彼は「人を殺す事と物を壊す事は全く同じ事」と述べた。母親殺害とのつながりについても質問されたが「自分では判断できない」と答えた。6月9日から10月4日まで精神鑑定が実施されたが、10月23日に裁判長はアスペルガー障害を含む広汎性発達障害には罹患していないとし、人格障害(非社会性人格障害、統合失調症質人格障害、性的サディズム)であるとする完全な責任能力を認める精神鑑定書を証拠として採用する。10月27日の第10回公判では、法廷に2万2796人分の死刑を求める嘆願書が提出されたが、検察官に「どう思う」と問われても「何も」としか答えなかった。11月10日午後、弁護側の最終弁論公判の最後に裁判長から意見陳述を促されたが、これに対し「特に何もありません」とだけ述べ結審する。

 2006年12月13日午前、大阪地裁で死刑判決が下った。死刑判決の瞬間も、まっすぐ前を見据えたまま微動だにしなかった。自分の存在について、弁護人が差し入れたノートに「何のために生まれてきたのか、答えが見つからない。人を殺すため。もっとしっくりくる答えがあるのだろうか。ばく然と人を殺したい」と記している。判決後「控訴する考えはない」と弁護人に話していたが、12月26日弁護人権限で控訴する。彼は接見中「生まれてこない方がよかった」などと話していたというが、2007年5月31日付で自ら控訴を取り下げ死刑が確定した。

 2009年7月28日、大阪拘置所にて死刑が執行された。執行時年齢25歳。20代での死刑囚執行は1979年に執行された正寿ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚(29歳)以来30年ぶりであった。また死刑判決確定から2年という期間での執行は、他の死刑囚と比較すると早い執行である。

 2009年7月28日死去(享年25)