小町とし子

小町とし子(こまちとしこ 本名:吉田登志子 1921年生)
 [女優]



 東京出身。幼少の頃より長唄の名取であった父親や兄から長唄の手ほどきを受ける。日本舞踊の藤間勘四郎に師事し、度々日本舞踊の公演の舞台に立った。1937年、日活多摩川撮影所に入社。同年、原節子のヨーロッパ~アメリカ外遊中の代役として新人の小町に白羽の矢が立ち、春原政久監督『嫁ぎ行くまで』で幸運な主演デビューをする。のち1937年『若しも月給が上ったら』、1939年『今日の船出』などに助演し、1940年に39歳年上の歌舞伎役者の12代目片岡仁左衛門と結婚し引退した。

 1946年3月16日、敗戦直後の食糧難が原因で住み込みの門人(当時22歳)によって夫・三男・女中二人とともに斧で惨殺されるという不慮の死を遂げた。犯人は仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていたが、当時の食料事情の悪さなどから配給米を不当に搾取され、1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかったことと、小町との諍いや、事件直前に仁左衛門が男を罵倒したこと(徹夜で書いた原稿を「これでも作家か」と怒鳴って投げつけられた)が犯行の動機になったと自供。殺害した女中の一人は実の妹(当時12歳)であり、妹にまで斧を振り下ろした理由については「頭の中が真っ白で気がついたら殺害していた」と語った。

 男は5人を残虐な手段で殺害しており、完全責任能力が認められれば死刑相当の事件であったが、1947年10月22日、無期懲役の判決を受けた。死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、男の感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものであった。

 1946年3月16日死去(享年26)