ロレンツォ・バンディーニ

ロレンツォ・バンディーニ(Lorenzo Bandini 1935年12月21日生)
 [イタリア・レーシングドライバー]



 当時イタリアの植民地であったリビアでイタリア人の両親の元に生まれ、1939年よりフィレンツェ近郊に在住。15歳のときに父が死去し、家を出て見習いのメカニックとして仕事を始める。キャリアに関しては、当初はモトクロスレースを行っていたが、その後1957年に四輪に転向。ミッレ・ミリア、フォーミュラ・ジュニアなどに参戦した。

 1961年、第3戦ベルギーGPにてプライベート・クーパーからデビュー。この年は3戦に出走したが、最高位は8位と入賞はならなかった。翌1962年はプライベート・フェラーリから3戦に参加し、第2戦モナコGPでは初入賞を3位で飾っている。1963年は第4戦フランスGPから最終戦の南アフリカGPまでの7戦に参加。当初はBRMから出走していたが、第7戦イタリアGP以降はフェラーリのワークスチームに抜擢されジョン・サーティースのNo.2ドライバーとして出走したが、最高位は3度の5位に終わった。また、この年はF1以上にスポーツカーレースにおいて活躍した。1963年にフェラーリでル・マン24時間レースを制したのをはじめ、デイトナ24時間レース、セブリング12時間レースなどでも優勝している。

 1964年は躍進の年となる。計4度の表彰台を記録し、うち第7戦オーストリアGPでは初優勝。また最終戦メキシコGPでの3位は、ファイナルラップでサーティースに2位の座を譲った結果であり、逆転チャンプ獲得に貢献するものだった。しかし同時にこのレースでは、ランキングトップだったグラハム・ヒルに追突し後退させており、「意図的にぶつけたのではないか」とも噂された。1965年・1966年もフェラーリから参戦。特に1966年は、サーティースがチームとの確執により開幕2戦で離脱したため、シーズン途中でNo.1ドライバーに昇格。エースとしての初陣となった第3フランスGPでは、予選で初のポールポジションを獲得し、決勝でも優勝こそなかったもののファステストラップを記録。また、開幕戦のモナコGPでもファステストラップを記録している。

 1967年はフェラーリが開幕戦南アフリカGPを欠場したため、第2戦モナコGPが初陣となった。バンディーニはレースの終盤、トップのデニス・ハルムに次ぐ2位を走行しており、その差は徐々に縮まってきていた。しかし疲労からか88周目にヌーベル・シケインでコントロールを失いクラッシュした。マシンはパーツをばら撒きながら横転し出火、この際に漏れたガソリンに引火したため爆発を起こす結果となった。炎上するマシンに長時間取り残されたバンディーニは大火傷を負い、3日後に病院で死亡した。

 事故の際、現場のマーシャルたちが防火服を脱いでいたことから、消火作業が遅れた。さらに、取材用のヘリコプターが接近しすぎたため、鎮火しかけたマシンが再度炎上し、救出作業をより遅らせる結果となった。事故死に際しイタリアのマスコミは過度にフェラーリを批判。エンツォ・フェラーリはこれにうんざりし、以後チームにイタリア人を乗せるのを躊躇うようになったといわれている。

 1992年にロレンツォ・バンディーニを追悼する意を込め、「ロレンツォ・バンディーニ賞」が設立された。モーターレーシングの成績やスピードの速さだけでなく、キャラクターやF1へのアプローチで強い印象を与えたドライバーに対して贈られる。基本的には前年活躍した若手F1ドライバーに贈られているが、ドライバーではなくF1関係者に送られる場合もある。

 1967年5月10日死去(享年31)