荒井昌一

荒井昌一(あらいしょういち 1965年12月19日生)
 [プロレス団体社長]



 東京都足立区出身。東京都立航空工業高等専門学校に通いながら、ボランティアサークルで障害者の介護に携わるうちに高専を3年で中退して福祉施設に就職。しかし介護のあり方に悩み離職して、1989年に大仁田厚が設立した直後のFMWに入社。プロレスは荒井が小学校時代から憧れる世界だったという。アマチュアバンドでボーカルだった荒井はFMW旗揚げ当初からリングアナウンサーを務め、よく通る声と、コール時の独特のスタイルで人気を得た。その傍ら、関係子会社の「FMWクリエイティブ」の取締役広報部長として、グッズや芸能活動のマネージメントも担当した。1995年には大仁田のプロレスラー引退に伴い、FMWの社長に就任した。

 FMW社長時代には、若手のハヤブサをエースに立て、大仁田時代のデスマッチ路線からエンターテイメント路線に軌道修正を行い、その流れで、自身もレスラーとして数回試合を行った。さらに1999年に入り、冬木弘道がコミッショナー兼現場責任者として実権を握ると、「悪のコミッショナー冬木と結託する『悪徳社長』」としてしばらく振る舞うが、元より「旧体制の粛清」を断行していた冬木から土壇場で裏切られる羽目となり、「重要人物の公開処刑」と称し、試合後にリング上で観客が見ている前で亀甲縛りにされたうえ、複数の選手から(あくまでもストーリーとして)顔面などに尿を浴びせられ全身ずぶ濡れにされたことさえあった。プロレスのギミックとはいえ、あまりに酷すぎる「公開処刑」にファン・マスコミも完全に引いてしまった。

 団体の危機に対し選手やファンを鼓舞すべく、リング上で得意のギターを奏でながら「翼をください」を熱唱したこともあった。だが、3年間3億円の放映料契約を結んでいたCS放送ディレクTVの事業中止、エース・ハヤブサの負傷欠場、興行の不振などが重なり、1999年頃から団体の経営は悪化、以後はかさんだ支払いのため金策に奔走していった。消費者金融に始まり、商工系ファンド、親族・知人からの借金の他、自動車金融、さらにはヤミ金と言われる無届けの高金利業者からも荒井個人の名義で約3000万円の借金をした。さらに家の権利書まで持ち出そうとしたことで家庭は崩壊、両親も自己破産を余儀なくされた。赤字で経営難の間もレスラーの給料を滞らせることはなかったという。

 しかし荒井の必死の金策も空しく、2002年2月14日・15日と立て続けに不渡りを出し、団体は倒産。最初の不渡りを出した2月14日には、その確定直前まで街金業者を回って、支払いの猶予を頼み込んでいたという。

 その後、業者の取り立てから逃れるために身を潜めていたが、同年5月16日に葛飾区の水元公園で首を吊って自殺しているのが発見された。家族にあてた遺書のようなものを身につけていたといい、負債を苦にしての自殺とみられる。その死は、下り坂だった2000年代初頭のプロレス業界に大きな衝撃を与えた。

 2002年5月16日死去(享年36)