ウィリアム・ホールデン

ウィリアム・ホールデン(William Holden 1918年4月17日生)
 [アメリカ・俳優]



 イリノイ州に、父は化学者、母は教師という裕福な家庭に生まれる。学生時代は細菌学者を目指していたが、パサディナ・ハイスクールに進学した頃から演劇に傾倒し、パサディナ・プレイハウスで演技を学ぶ。劇団に所属して、舞台に立っていたところをスカウトされて1938年に映画入り。

 1939年のデビュー作『ゴールデン・ボーイ』で早くも注目される。当時は“赤ん坊のような笑顔を持った隣家のお兄ちゃん”と呼ばれ、アイドルスターとして売り出した。

 第二次大戦中は陸軍航空隊に所属。4年間の軍務の後、戦後再び映画に出演するが、しばらくは作品に恵まれず復帰間もないころは低迷していた。しかし、1950年、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』でアカデミー主演男優賞にノミネート、この一作でそれまでのアイドル路線から脱却し演技派スターへと変化を遂げてスターダムを駆け上がる。

 その後は1950年代を通じて興行的に最も信頼できるスターと称され、数々のヒットを飛ばし、特にビリー・ワイルダーと再び組んだ『第十七捕虜収容所』では念願のアカデミー主演男優賞を受賞。他にもデヴィッド・リーン監督『戦場にかける橋』、キャロル・リード監督『鍵』、ジョン・フォード監督『騎兵隊』、『喝采』、『麗しのサブリナ』、『ピクニック』、『慕情』と、世界映画史を代表する名作・ヒット作に出演し大活躍。

 ハリウッドでも指折りの実業家としても有名で、野生動物の保護に熱心に取り組み、1970年代にはアフリカはケニアに1260エイカーにも及ぶ広大な土地を購入、そこを保護区にしサファリ・クラブの共同経営などにも参加した。また、1959年には税金対策の為に家族共々スイスに移り住んだりした。

 女優のブレンダ・マーシャルと応召前の1941年に結婚するが、1970年に離婚。さすがに1960年代終わりのアメリカン・ニューシネマの時代に入ってからは人気も下降気味になったが、1969年のサム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』、1973年のクリント・イーストウッド監督『愛のそよ風』、1974年の『タワーリング・インフェルノ』、そして、1976年にはシドニー・ルメット監督『ネットワーク』で再びアカデミー主演男優賞候補になるなど、哀愁をにじませた名演技によって1970年代にも活躍を続けた。しかし、私生活では事業の不振や呼吸器疾患、年下の女優ステファニー・パワーズとの関係などから、晩年はアルコール依存症だったという。

 1981年11月、サンタモニカにある自宅の一室で、変死体となって発見された。検死により階段から酔ったまま転倒して頭を大きく切ってしまい、出血多量が原因で死亡したことがわかった。血中アルコール濃度は0.22mgでカリフォルニア州警察が飲酒運転で取り締まる基準の二倍以上だった。その発見は死後数日経ってから、という悲しい結末が世界中のファン達の涙を誘った。

 1981年11月12日死去(享年63)