翠川秋子

翠川秋子(みどりかわあきこ 本名:荻野千代 1889年9月生)
 [アナウンサー]



 東京都出身。女子美術学校を卒業後、銀行員と結婚。1男2女をもうけるが1922年に夫と死別、折りしも開局に向けて準備を進めていた東京中央放送局総裁だった後藤新平の目に止まり、後藤の推薦によって1925年に東京中央放送局入り。日本初の女性アナウンサーとなり、毎朝の家庭講座を担当した。

 だが、翠川は1年足らずで退職。その後は高等女学校の美術教師・白木屋での広報雑誌編集などを勤めたものの長続きせず、新宿2丁目に屋台のおでん屋「みどり」を開いた。

 1935年8月6日、翠川の子女3人が7月25日に母が和服で家を出たきり帰って来ないと警察に届出た。翠川は、子女に「子供も大きくなって責任を果たした」「母の命日は7月25日」「兄弟仲良く」「海中に身を沈み果てる」と遺書を残しており、直ちに捜索が行われた。だが8月20日午前8時30分安房郡西岬村坂田海岸で翠川の遺体が発見され、その後の捜査でおでん屋の客だった29歳の蒲田区役所職員と無理心中して死んだことが判明した。

 1935年8月20日死去(享年45)