マイケル・ライリー・パワーズ

マイケル・ライリー・パワーズ(Michael Riley Powers 1870年4月22日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]



 マサチューセッツ州ピッツフィールド出身。アイルランド出身の両親の息子として生まれた。ホーリークロス大学を卒業した後にノートルダム大学で医学の授業を受けた。幾つかの情報源では、子供が生まれた後にルイジアナ州の大学に通っていたという主張もされている。

 1898年7月12日にルイビル・カーネルズでMLBデビュー。1899年9月16日にカーネルズからワシントン・セネタースへ売却された。1901年にコニー・マックが監督を務めるフィラデルフィア・アスレチックスへ移籍して正捕手として起用された。以後は1905年7月13日から8月7日までのニューヨーク・ハイランダーズでの1ヶ月足らずの在籍を除き、1909年までアスレチックスでプレーした。

 医師免許を取得していた事から「ダク・パワーズ」の愛称で呼ばれた。ニューヨーク・ハイランダーズに在籍した1905年には、同じく医師免許を持つ投手のダク・ニュートンとMLB史上で唯一知られている医師同士のバッテリーを組んでいる。11シーズンのうち100試合以上に出場したのは1901年のみで、基本的には控え捕手として起用された。しかし、647試合に出場しながら通算打率.216という内容に示されるように、打者としてよりも卓越した守備力を持つ捕手として評価されていた。マック監督は知的な選手としてパワーズを好み、後年にアメリカ野球殿堂入りを果たしたエディ・プランクの専用捕手でもあった。

 1909年4月12日のボストン・レッドソックスとの開幕戦でアスレチックスの新本拠地球場、シャイブ・パークが開場した。パワーズはこの試合の7回に深刻な腹痛に苦しみ、ダッグアウトに崩れ落ちた。これより前にファウルゾーンに上がったポップフライを捕ろうと追い掛けて壁に激突した際に負傷していたのが腹痛の原因とされた(試合中に食べたサンドイッチによる食中毒も疑われた)。なんとか9回まで出続けてたが、試合終了後にクラブハウスで着替えをしている最中に倒れ、直ぐに総合病院に収容された。入院当初は胃炎及び、または腹膜炎と診断された。最初の手術は14日朝に行われ、腸に窪みが出来ている事が判明した。その後に腸に壊疽が生じたのが致命的だった。食事も自分で摂れなかった。そして、3度目の手術が行われた後、4月26日に感染症が直接の原因となって死亡した。妻のアーマンと5歳になる娘が残された。MLB史上初の試合中の事故によって負った損傷が最終的に死に繋がった選手となった(1920年にレイ・チャップマンが頭部死球を受け死亡し、二人目となった)。

 29日のパワーズの葬式には1万人以上が参列した。アスレチックスやセネタースの多数の関係者だけで無く、他の4球団からのかなりの数の代表者も含まれていた。この日はアメリカンリーグ8球団のうち、ハイランダーズとレッドソックスのみがハンティントン・アベニュー・グラウンズで試合を行った。1910年7月1日にアスレチックス、ハイランダーズ、レッドソックス、セネタースの選手が出場する一種のオールスターゲームが開催され、イベントはダク・パワーズデーと呼ばれた。このイベントで8000ドル以上の資金が集められ、アーマン未亡人と娘に寄付された。

 1909年4月26日死去(享年39)