大場政夫

大場政夫(おおばまさお 1949年10月21日生)
 [プロボクサー]



 東京都出身。WBA世界フライ級王座を5度防衛した。これは日本人の世界同級王者として過去最多の連続防衛記録である。現役世界王者のまま事故死したため「永遠のチャンプ」と称される。

 ギャンブル好きの実父の影響で家計は苦しく極貧の環境で育つ。しかしプロボクシングファンだった実父の影響で、小学生の頃から「プロボクシングで世界王者になり、両親のために家を建てよう」と人生の目標を設定していた。義務教育が修了した直後の1965年6月1日に、東京・帝拳ボクシングジムに入門。入門当初は身長160cm、体重48kgと貧弱で周りからはプロボクサー向きかどうか疑問視されていた。

 1966年11月7日、1回KO勝ちでプロデビュー。1970年10月22日、世界初挑戦でベルクレック・チャルバンチャイ(タイ)を13回KOに降し、WBA世界フライ級王座獲得。帝拳ジム初の世界王者となった。1971年4月1日、ベツリオ・ゴンザレス(ベネズエラ)を15回判定で降し初防衛。同年10月23日、フェルナンド・カバネラ(フィリピン)を15回判定で降し2度目の防衛。1972年3月4日、花形進を15回判定で降し、3度目の防衛に成功。同年6月20日、世界1位で最強の挑戦者と言われたオーランド・アモレス(パナマ)を5回KOに降し4度目の防衛。1回に左を食って尻餅をつくダウンを喫し、バッティングで額から出血するなど苦戦するが、2回に右ストレートでダウンを奪い返し、5回に一気のラッシュでKO勝ちを収めた。

 1973年1月2日、5度目の防衛戦の相手は「稲妻小僧」の異名を持つベテラン、チャチャイ・チオノイ(タイ)。初回、いきなりの右ロング・フックをまともに受け大場はダウン。この時大場は右足首を捻挫、以降ラウンド間に氷で冷やしつつ、足を引きずりながらも打ち合いに応じていった。大場は、強気のボクシングで試合中盤から形勢を逆転し、ついに12回、チャチャイから1度目のダウンを奪う。タイの老雄はレフェリーに促されるように立ち上がるが、鬼気迫る表情の大場の連打に晒され2度、3度とダウン。大場は逆転ノックアウト勝利を収めた。

 チャチャイ・チオノイ戦から3週間が経過した1973年1月25日、大場は帝拳ジムへ向かうべく愛車シボレー・コルベットを運転していた。そして、新宿区新小川町3丁目の首都高速道路・大曲カーブで高さ25センチ幅80センチの中央分離帯を乗り越え、対向車線から走ってきた11トン大型トラックと衝突。現場はトラックの下に車がめり込んだ状態でつぶれており、駆けつけた救急隊も生存の可能性がないものと判断せざるをえないほどの惨状であった。この事故で現役世界王者のまま死去した。頭蓋骨骨折、脳挫傷が直の死因だったが、他に左右の肋骨が計11本完全骨折していた。

 身長168cm、リーチ170cmと当時のフライ級では破格の体格を生かしたスピーディーでスタイリッシュなアウトボクサーだったが、その体格ゆえ常に減量苦を強いられていた。しかし強靭な精神力で試合の度に減量苦を乗り越え続けていた。チャチャイ・チオノイ戦時、大場の減量が苦しくなって来たのを知っていた帝拳関係者は、チャチャイ戦の後、大場の次戦の予定を組まず、暫く休養させることとし、時期を見計らって大場が保持していたWBA世界フライ級王座を返上した後、バンタム級に転向させて、ファイティング原田に次ぐ当時としては史上二人目となるはずの二階級制覇を狙って当時のWBA世界バンタム級王者エンリケ・ピンダー(パナマ)に挑戦させることを検討し始めていたという。大場は自らのファイトマネーで、埼玉県に一軒家を建築し、両親に贈与しており、小学生の時に設定した「プロボクシングで世界王者になり、両親のために家を建てる」という目標を成し遂げている。通算戦績38戦35勝16KO2敗1分。

 1973年1月25日死去(享年23)