ジャン・ベーラ

ジャン・マリー・ベーラ(Jean Marie Behra 1921年2月16日生)
 [フランス・レーシングドライバー]



 ニース出身。ゴルディーニ、マセラティ、BRM、ポルシェ、スクーデリア・フェラーリからF1に出走した。ベーラは小柄だががっちりした体格で、体重は178ポンド(約80キロ)あった。肩が大きく、12回にわたる事故により受けた傷跡があった。1955年には事故によって片耳を引きちぎられた。ベーラは時に素晴らしいドライブをしたが、熱意に欠けるドライブを見せることもあった。スポーツカー、グランプリカーのレースへ転向するまで、モト・グッツィでオートバイレースに参戦していた。1952年にベーラは4輪の競技参戦を開始し、同年に行われた非選手権レースのランスグランプリでF1での勝利を挙げると、1959年までに多くのレースに優勝した。F1の世界選手権レースでは勝利を挙げることはできなかったが、モータースポーツへの抑えられない欲望をコントロールし、生涯、強力な選手であると見なされ続けた。

 1959年、フェラーリに移籍したベーラは4月にエイントリーで開催されたF1マシンによる200マイル(320km)のレースで勝利した。ベーラはランスで開催されたフランスGPをピストン破損によりリタイアすると、激しい議論の末チームマネージャーのロモロ・タボーニを殴打し、即座にチームを追われた。それから1ヶ月も経たないうちに、ベーラはベルリンのアヴスで開催されたスポーツカーレースにポルシェ・RSKで参戦した。このレースはドイツGPと併催で、グランプリの決勝前日に開催された。このスポーツカーレースは、1500cc以下の小さな排気量の車両で争われた。3周が終了した時点で、ベーラは3位を走行していた。アヴスは特徴あるレーストラックで、アウトバーンの車線を2.5マイル(4.0km)にわたり使用していた。北行きと南行きの車線は15メートルほど離れていた。コースの一方の端は時速30マイル(48km)ほどで通過するヘアピンになっていた。もう一方の端は、9メートルほどの高さの急なバンク角のついたカーブだった。ベーラは降り続ける雨の中、時速110マイル(180km)で走行中にコントロールを失った。ベーラのポルシェはリアを左右に振り始めると、つるつるで急なバンクをリアから滑り上がった。そしてポルシェはスピンし、バンクの頂上に到達したときには、ノーズが上を向いていた。車両はバンクの頂上に側面から激しく着地し壊れて停止したが、レースは続行された。ベーラは車両から投げ出され、バンクの頂上に並ぶ、参加者の国旗を掲げた8本の旗ざおのうちの1本に衝突した。ベーラが衝突した旗ざおは、ほぼ半分の高さのところで折れ曲がった。ベーラは林の中に落下し、パドックの道路わきまで転がった。そこはドライバーや車両がしばしばプラクティスを待つ場所だった。

 病院の発表によると、ベーラは肋骨のほとんどを骨折し、致命傷となる頭蓋骨骨折に見舞われていた。アヴスはアウトバーンA115の一部であり、A115はドイツの高速道路システムの主要な部分を担っている。

 事故死してから6日後、ベーラはフランスのニースに埋葬された。この間に3度の葬儀が行われた。最初はベルリン、次にパリだった。ニースでは、3000人もの会葬者が道に並んだ。ベーラは19歳の息子、ジャン=ポールを遺した。ベーラの死去により、名声あるフランス人ドライバーはモーリス・トランティニアンだけになった。トランティニアンはベーラの家族を慰め、フランスの若手ドライバーに「国際モーターレースでフランスの色を守ろう」と呼びかけた。このレース界のグループの活動に名を寄せなかった著名人にはエンツォ・フェラーリが含まれていた。エンツォ・フェラーリはベーラの死の10日前に、ベーラをファクトリードライバーから外しており、ベーラの葬儀の会葬者への追悼のメッセージも送らなかった。

 1959年8月1日死去(享年38)