ルー・ゲーリッグ

ヘンリー・ルイス・ゲーリッグ(Henry Louis Gehrig 1903年6月19日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]



 ゲーリッグは毎日プレーを厭わないその頑丈さから鉄の馬(Iron Horse)と呼ばれ、1925年から1939年の14年間に渡り、当時の世界記録となる2130試合連続出場を果たした。

 1938年シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。これについて本人は当時「シーズン半ばで疲れてしまった。なぜかはわからないが、何か頑張れる気がしない」と述べている。また、エレノア夫人には30歳の誕生日以来脚に力が入らなくなっていると伝えている。夫人はゲーリッグが脳腫瘍にかかったのかもしれないと心配していた。ゲーリッグはシーズン前の1938年1月に『ローハイド』という西部劇映画に出演している。映画の中で彼はビリヤードの球を投げつけたりするなど、一見問題ないようにアクションをこなしていたが、椅子から立ち上がるのに手を付いたり、歩くときに少しふらついたりするなどしており、下肢筋力低下の軽い症状があらわれていた。ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまう事もあった。ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。35歳になってはいたが、周りのチームメイトはまだまだ限界ではないと思っていた。少なくとも彼の1938年の成績は打率.295、29本塁打114打点とリーグ平均を遥かに上回っていた。ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。

 1938年の暮れになると、道路のわずかな段差でも頻繁に躓くようになり、得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。シーズン終了後、ゲーリッグはニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。エレノア夫人はこの見立てに疑いを隠さなかったものの、ゲーリッグはその診断を信じて治療をまかせた。健康を取り戻してヤンキースの勝利に貢献する事を自身の大きな目標とし、それに全力を注ごうとしたのである。ヤンキースに対する忠誠心は強く、球団が年俸の3000ドルダウンを提示してもゲーリッグは素直にそれを受け付けている。

 1939年の春季キャンプが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。同年のゲーリッグの成績はキャリア最低の34打席4安打1打点、打率.143であった。さらには走塁面でもキャリアを通じて積極的な走者であったゲーリッグだったが、同年には筋肉のコントロールを失いつつあり走る事さえ困難となっていた。

 ジョー・マッカーシー監督は球団首脳部からのゲーリッグをベンチに下げろとのプレッシャーには従わなかったが、ゲーリッグ自身は次第に一塁守備を普通にこなすことも難しくなり、当時の投手ジョニー・マーフィーは投手ゴロを捕球後、ゲーリッグが一塁に到達するのを待つ事が日常茶飯事となった。2130試合目の連続出場となった1939年4月30日のワシントン・セネターズ戦では無安打に終わり、2日後の5月2日に自ら監督のもとに出向き欠場を申し入れ、記録は途切れた。その後もゲーリッグはチームに帯同するものの、状態はさらに悪化。6月中旬にはエレノア夫人も再度脳腫瘍の可能性を疑っていた。

 エレノア夫人は友人よりミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックにいるチャールズ・メイヨー医師への紹介を受け、直ちに当時ヤンキースが滞在していたシカゴからロチェスターへゲーリッグを連れて行き、メイヨーの診断を1939年6月13日に受ける。最初にゲーリッグを見たハベイン医師は、一目見た瞬間彼の歩き方や姿勢が明らかにおかしいのを見抜いていた。彼の症状は数ヶ月前に自身の母を蝕んでいた筋萎縮性側索硬化症の症状に酷似しており、顔の表情機能の低下や奇妙な歩き方は母親と全く同じように見受けられた。その後6日間ゲーリッグはメイヨー・クリニックで過ごし、彼の36歳の誕生日となった6月19日にエレノア夫人とゲーリッグ本人に病名が告知された。筋萎縮性側索硬化症とは、飲み込む事や話す事が困難になるなど、急激な運動機能の低下の一方、精神機能には一切の低下がなく、急速に不自由になっていく身体を曇りのない意識のもとで認識させられるという難病である。患者は発症後、半数ほどが3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する。なお現在ではゲーリッグは筋萎縮性側索硬化症ではなかったとする説も提唱されている。

 1939年6月21日にヤンキースはゲーリッグの引退を発表。しかしキャプテンとしてチームに帯同すると述べた。ゲーリッグの引退後、ヤンキースの首脳部は彼が経済的に困らないよう全ての手を尽くすと述べ、フロント入りする事になっていた。当時の規則によると1939年の年俸は全て支払われることになっており、また試合も病の進行と共に歩けなくなるまで観戦し続けた。アメリカ野球殿堂への投票権を持つアメリカ野球記者連盟も、彼の病の状況を考慮し、通常は引退後5年経たないと被投票権を持たないが、特例としてゲーリッグに対する投票が行われ、殿堂入りが決定した。36歳という当時史上最年少での殿堂入りにも関わらず、病により式典に参加する事はできなかった。また、ヤンキースはゲーリッグの背番号『4』を史上初の永久欠番に指定。背番号制が導入されたのがゲーリッグのキャリア開始後の1929年であったため、彼の他にヤンキースで背番号4を付けた事のある選手はいない。

 1939年10月、ラガーディアに請われて、10年任期の仮釈放委員会委員に就任した。ゲーリッグは死の1ヶ月前まで仮釈放委員会のオフィスに出勤して仕事をしていたが、次第に歩けなくなり車椅子の使用も拒否した事から完全に寝たきりの生活になる。この頃、発見されたばかりのビタミンEが奇跡を願って投与されたが、何らの効果をあげることはなかった。1941年6月2日、死去。38歳の誕生日の17日前だった。

 ゲーリッグが現役生活の晩年に手のレントゲン撮影を行ったところ、手だけで17もの骨折箇所が見つかった。連続出場はこれほどまでに彼の身体に負担を強いており、筋萎縮性側索硬化症の発症がなくても、遠からずその記録は途切れていただろうと推察される。ただ出場を続けていたわけではなく、メジャーリーグ史上に残る非常に優れた打者でもあった。17年間で2000近い打点を挙げ、生涯打率は.340。出塁率は.447と、打席に立てばほぼ2回に1回は塁に出た。オールスターに6回選ばれ、1927年と1936年にはアメリカンリーグMVPを受賞、1934年には三冠王を獲得している。

 1941年6月2日死去(享年37)