四谷怪談

 「『四谷怪談』に関わると不幸が襲う」。“お岩さん”で親しまれてきたこの有名な怪談話には、古くから“祟り”だと囁かれる数々の悲劇がつきまとう。原因不明の病気、突然の自殺、怪死…、出演俳優、制作関係者を襲う不幸の連続は、果たして偶然なのだろうか─



 AV女優の林由美香が急死したとき、映画ファンは驚きを隠せなかった。林由美香は2005年6月25日に公開された映画『「四谷怪談」でござる』でお岩役を演じていた。死亡したのは公開の3日後である。一人暮らしの林の自宅に母親が電話したが、誰も出ないので訪ねたところ、すでに遺体となっていた。自宅の鍵はかかっていなかったが、司法解剖の結果、事件性はないとされた。自殺の動機は見当たらず、その兆候もなかったことから、飲酒と睡眠薬を原因とする自然死と見られている。だがあまりにも突然の出来事ゆえに、不可解な印象はいまも払拭されていない。加えて偶然とはいえ、お岩役を演じた直後の訃報だったため、“四谷怪談の祟り”説までが取り沙汰されたのだ。


 祟りが本当にあるかどうかはともかく、四谷怪談にまつわる祟りの物語は、今日に至るまで奇妙なリアリティを発散し続けている。映画の撮影中や舞台の稽古中に事故が起きるというだけではなく、関係者が死亡したケースが何度もある。そうした事件がいつから続いているのかというと、実に1825年の『東海道四谷怪談』初演以来である。作者の四世鶴屋南北をはじめとする関係者11人が、芝居の初演から5年の間に連続死している。純然たる創作芝居なら祟るはずもないが、そもそも四谷怪談は1688~1704年の元禄時代に実際に起きた事件である。お岩は実在し、伊右衛門の怪死も事実と見られる。それをエンタテイメントに仕立てたのが南北の芝居だった。


 林由美香の急死は、近年では2度目のショッキングな出来事だった。2002年7月18日に女優の戸川京子が自宅マンションで自殺したときも、やはり四谷怪談との関連が話題に上がったからだ。彼女の場合、遺書はなかったものの、自殺であったことは疑えない。自宅の鍵はかけてあり、死因は首吊りによる窒息死。外傷はなかった。ぜんそくの持病があって体調を崩していたことから、発作に苦しんでいたともいわれている。だが、前日まで命を絶つ気配はなく、普段通りの様子だったという。戸川は1999年制作のコミックビデオ『東海道四谷怪談』でお岩役を演じていた。これが非常に熱演で評価も高かったため、困難なお岩役に入れ込んだ心理的影響も自殺との関連で語られた。だがそれだけで祟り説が浮上したわけではない。問題は彼女が死んだ7月18日という月日にある。

 四谷怪談の芝居では、伊右衛門はお岩を謀殺した後に、お梅という女性と再婚する。その後にお岩の祟りで錯乱した伊右衛門が、過ってお梅を切り殺してしまうという展開になる。もちろんそれは創作だが、怪談の実説によると、実際にお梅のモデルはいたらしい。実説では、伊右衛門はお岩を田宮家から追放した後、お花という後妻を迎えている。この人が芝居でいうお梅である。そして伊右衛門とお花が祝言を挙げた日の夜、庭先にお岩の怨霊が現れたと記録されている。この祝言の日を実説は7月18日と記す。毎年この日になると不可解な事件が起きたともいう。伊右衛門とお花の間に生まれた子供も7月18日に怪死している。いわばお岩の祟りが発現する因縁の日なのだ。奇しくも戸川京子がその日に自殺したため、怪談の実説を知る人は慄然としたのである。


 四谷怪談の実説を記した『四谷雑談集』は、江戸期のいわゆる実録本であり、今日でいう事件ノンフィクションである。作者は不明で出版はされず、もっぱら写本で流された。いまでいえば匿名のブログで情報発信されている形だ。それがやがて講釈種になり、尾上菊五郎と鶴屋南北という人気者が劇化に踏み切って一気にメジャーになったため、幕府当局は困惑したらしい。というのも『四谷雑談集』は単なる怪談ではなく、御先手組与力の女性スキャンダルと裏金工作を実名で暴露していたからだ。つまり警察官僚の腐敗を告発した怪文書という性質の読み物でもあったのだ。それを芝居にしたということは、現代ならマスメディアで大々的に報道したのと同じである。かくして奉行所はお岩事件の再調査を余儀なくされ、その結論を芝居初演の2年後に『於岩稲荷来由書上』という文書にまとめた。これはお岩事件に関する幕府の公式見解である。そしてその文書の中でも、伊右衛門とお花が再婚したのは1687年7月18日と明記されている。


 戸川京子の自殺した日が、別の日であれば、四谷怪談との関連はそれほど説得力を持たなかっただろう。林由美香にしても、お岩役を演じた直後の死という偶然がなければ、祟り話は出てこなかったはずだ。しかし、現実に祟りを思い起こさせるようなタイミングで悲劇は起きた。なぜか四谷怪談には、かかる“偶然”がつきまとう。