丹羽兵助

丹羽兵助(にわひょうすけ 1911年5月15日生)
 [政治家]



 愛知県出身。名古屋中学校卒業後、関西学院大学神学部に進むも父の急逝により中退。家業の土建業を継いだ後、守山町議、愛知県議を経て1955年の第27回衆議院議員総選挙に旧愛知2区から出馬し初当選。当選13回。自民党内では傍流の三木派→河本派に所属。第2次田中再改造内閣の国土庁長官、第1次中曽根内閣の総理府総務長官・沖縄開発庁長官、竹下改造内閣の労働大臣などを歴任。海部内閣誕生の際には河本派内の意見取りまとめなどの役割を果たした。1988年、勲一等旭日大綬章受章。

 腰の低い人柄から「お辞儀の丹羽兵」、あるいは毛利松平・森山欽司らと共に「お辞儀三人衆」と呼ばれたが、1990年10月21日、陸上自衛隊守山駐屯地(名古屋市)で行われていた記念式典(一般市民にも公開)に来賓として出席していた際、同駐屯地本庁舎1階ロビーで、当時47歳の部外者の男(統合失調症で入院中。当時は一時退院中であった)に首を果物ナイフで刺された。出血多量により心肺停止状態で近隣の病院に搬送されたが、12日後の11月2日に死去。病院に搬送された際、秘書が申告した血液型と秘書が偶然持参していた国会便覧の血液型記載を信用し、通常は行われるクロスマッチテストが行われないまま、異なる型の血液が輸血されると言う医療事故も重なったが、司法解剖の結果、死因は頸部を切られたことによる失血死で、型違い輸血は死因に影響しないと判断されたという。なお、誤った血液型が記載されたのは、当時流行した血液型占いのブームが原因であり、血液型による印象が得票数に繋がると考えたのではないかと推測されている。

 犯人の男は調べに対し「殺すのが目的。国会議員ならだれでもよかった」と供述、動機については「電波を止めようと思った」と意味不明なことを話したという。男は1976年に海部首相の選挙活動を妨害し公職選挙法違反容疑などで、翌1977年にも民社党の春日一幸の演説を妨害し威力業務妨害で逮捕されていたが、いずれも不起訴。1977年以降、入退院を繰り返していた。政治家が暴漢に襲われて死亡したのは1960年の浅沼稲次郎社会党委員長に次いで戦後二人目。


 1990年11月2日死去(享年79)