全泰壱

全泰壱(チョン・テイル 1948年8月26日生)
 [韓国・労働運動家]



 大邱の貧しい家庭に長男として生まれ、家族でソウルに上京した後、17歳でソウル市東大門市場にある平和市場の縫製工場に就職した全泰壱は、そこで働いている女性労働者の多くが劣悪な環境で働かされている現状を知った。そして、長時間過密労働と低賃金で働かされたあげくに、肺炎を患ったことを理由に解雇された幼い女性工員を助けようとしたことを理由として、彼自身が解雇されたことをきっかけに労働運動に目覚め、活動するようになった。

 裁断士として仕事をする傍ら、独学で労働法を学び、同僚と共に勉強会を組織した上で、工場における労働実態や労働環境について調査し、それに基づいて労働庁に陳情したり、雇用者と協議を重ねたが、一向に改善の兆しが見られなかった。

 1970年11月、このような状況に抗議するための集会を計画し、実行に移そうとした矢先、警察と事業主に強制解散させられそうになったため、全泰壱は全身にガソリンをかぶって焼身自殺を図った。

 彼は仲間に「マッチをすって俺になげつけてくれ」と要求。マッチが投げられると、彼の全身に火柱が立った。さらに火だるまになって群衆のなかに分け入り、「労働基準法を遵守せよ!我々は機械ではない!日曜日は休ませろ!労働者たちを酷使しるな!」などと叫び続け、最後に悲鳴をあげて倒れた。しかし彼は再び立ち上がり、「私の死を無駄にするなあ!」と絶叫した。目も鼻も焼けただれていた。すぐに病院に搬送された彼は、「おなかがすいたよ……」とつぶやいて、9時間後の夜10時すぎに息を引き取った。

 全泰壱の焼身自殺をきっかけに、労働者の悲惨な実態が報道されるようになったことで、朴正熙政権下における経済成長の負の側面が明らかとなり、停滞を余儀なくされていた労働運動が活発となった。また、学生や知識人の目を労働問題に向けさせ、1970年代~80年代の民主化運動における労働者と学生及び知識人の連帯を生み出すことにも貢献した。以後、問題意識を持つ多くの大学生達が経歴を偽って工場に入って仕事をしつつ、労働運動を組織する「意識化」作業を展開し、労働運動の発展に貢献するようになった。

 彼の焼身自殺は後に「人間宣言」と名付けられ、今も語り継がれている。

 1970年11月13日死去(享年22)