ミット・チャイバンチャー

ミット・チャイバンチャー(Mitr Chaibancha 本名:ピチェート・フムヘーム 1934年1月28日生)
 [タイ・俳優]



 ペッチャブリー県ターヤーン郡生まれ。両親が離婚し、祖父母に預けられたが、8歳の時にバンコクに住む母親に引き取られた。高校時代の1951年にアマチュアボクシングのフェザー級学生チャンピオンに、翌1952年にはライト級学生チャンピオンになる実績を残した。高校卒業後、志願して空軍下士官候補生になった。軍役に服し、ドンムアン空軍戦闘大隊の訓練教官になり、空軍下士官の階級を得た。彼の俳優活動は、勝手に友人がスター専門誌に彼の写真を何枚か送った時から始まった。これらの写真がきっかけで、スター専門誌の編集者と接触、その後映画会社に紹介され、俳優として活動がスタートした。1956年、ミットが演じた映画『チャート・スア』の公開を境にタイ映画界は16mmカラー・フィルム映画の黄金期を迎え、ミットは国民的人気俳優となった。

 1970年10月8日、自身で監督・主演を務める映画『インスィー・トーング』の撮影中にヘリコプターから落下する事故で死亡した。その日はチョンブリー県パタヤにあるドンターン浜にて、観衆の見守る中でラストシーンの撮影が行われていた。ミットがヘリコプターから垂らされた縄梯子に飛び乗り、そのままヘリコプターが飛び去るシーンを撮影する予定だった。ところが、ミットは縄梯子に足を掛けることができず、そのままヘリが急上昇したために両手だけでぶら下がったままの状態となってしまった。操縦士は異常に気付かず機体を旋回させたため、強い遠心力によってミットはヘリコプターから落下、90mの高さから地面に激突した。

 検死の結果によれば、怪我は体のあらゆる部分に及んでおり、ほぼ即死の状態で、手首には深さ2cm長さ8cmの紐による外傷、右あご骨を骨折、右頬骨を骨折、右耳から出血、右肋骨5本を骨折、右大腿骨を骨折、上腕骨を骨折していた。翌日、タイのあらゆる新聞が一面でミットの死を伝え、その知らせは日本や香港、台湾まで届いた。ミットの遺体はケーナンルン寺に安置され、死後100日が経った1971年1月21日に王室主催の火葬の儀で荼毘に付され、数十万人の人々が参列したという。

 ミットはその事故死に至る1971年まで300本以上の作品に出演し、16mm時代の黄金期に制作された映画の半数以上はミットの出演であった。しかし、ミット不在の映画からの観客離れや、16mmカラーの粗悪な二番煎じの作品が横行したこともあって、16mmカラー映画はタイ映画界から姿を消すこととなった。ミットはまさにタイ映画の歴史を動かしたスターであったと言える。

 1970年10月8日死去(享年36)