山藤浩三

山藤浩三(やまふじひろみ 1944年10月23日生)
 [競輪選手]



 秋田県出身。秋田県立六郷高等学校時代の1962年、大津びわこ競輪場で開催されたインターハイ、1kmタイムトライアルで優勝。その後法政大学へと進み、1964年の東京オリンピック日本代表選手となり、4000m個人追い抜きに出場し13位。また団体追い抜きにも出場した。

 法政大学卒業後、日本競輪学校第25期生として入学。同期には荒川秀之助、谷津田陽一らがいる。日本競輪選手会茨城支部に在籍し、1971年の新人王戦を優勝。その後も1981年頃まで特別競輪(現在のGI)に出場していた。

 1984年5月9日、茨城県取手市の自宅2階の寝室で妻(38)、長男(13)、二男(10)と共に死亡しているのが発見された。パジャマ姿で並んで死んでおり、枕元にあった妻が友人に宛てたとみられる遺書に「いくら払っても借金はなくなりません。店の収入だけではとても支払いを続けることはできない。パパと話し合いをしたが、死ぬ以外に道はありません」と書かれてあった。台所のガス管からゴムホースで寝室に引き込み、窓に目張りがしてあったことから多額の借金を苦にした一家心中であると見られている。

 自宅1階はコーヒーショップで、妻が経営していたが、妻が親族の借金の連帯保証人になっておりサラ金業者に追われる日々だったという。山藤は精神的に参ってしまい胃潰瘍で通院していた。

 1984年5月9日死去(享年39)