ジュール・ビアンキ

ジュール・ルシアン・アンドレ・ビアンキ(Jules Lucien Andre Bianchi 1989年8月3日生)
 [フランス・レーシングドライバー]



 ニース出身。祖父は3度のGTチャンピオンであるマウロ・ビアンキ、伯祖父(マウロの兄)は1968年のル・マン24時間レースに優勝したルシアン・ビアンキというレース一家の出身。3歳で初めてレーシングカートに乗り、5歳からカートレースを始め、2005年はフォーミュラAでアジア・パシフィックチャンピオン、2006年はフランスチャンピオンとなる。2007年より4輪に転向。フランス・フォーミュラ・ルノー2.0とユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0に参戦し、フランス・フォーミュラ・ルノー2.0では初年度にチャンピオンを獲得。2007年の終盤よりフォーミュラ3・ユーロシリーズにARTグランプリから参戦し、2009年にはバルテリ・ボータス、エステバン・グティエレス、エイドリアン・ターベイとチャンピオン争いを演じ、この年最多の9勝を上げて見事チャンピオンに輝いた。

 2009年末に発足したフェラーリ・ドライバー・アカデミーの最初の所属ドライバーとなり、2011年にフェラーリのテストドライバーとして契約した。2012年はフォース・インディアとリザーブドライバーとして契約し、フリー走行1回目に9回出走した。2013年はニコ・ヒュルケンベルグが移籍して空いたフォース・インディアのシートを、エイドリアン・スーティルと競ったがシートは獲得できなかった。しかし、マルシャと契約していたルイス・ラジアにスポンサーからの支払いが期限内に振り込まれないトラブルが発生したため、代わってシートを得ることが出来た。開幕戦オーストラリアGPでは、予選・決勝ともにライバルチームの1つであるケータハム勢に完勝し、ルーキー勢3番手となる15位完走。このレースでビアンキは、全体の11番手のラップタイムを刻む。このタイムは終盤のベストラップとはいえセバスチャン・ベッテルらと相違ないタイムであり、チーム・マシンのパフォーマンスを考えるとかなりの好タイムであった。第2戦マレーシアGPにて獲得した13位をケータハム勢が記録する事が出来なかった為、チームのコンストラクターズランキング10位獲得に貢献する。第6戦モナコGPは、ギアボックス交換を伴い21番グリッドからのスタートとなったが、粘り強い走りを見せ8位完走する。5秒ストップペナルティをセーフティカーが入っている最中に行ったとしてレース終了後実際のタイムにさらに5秒加算されたため、9位のロマン・グロージャンと順位が入れ替わり、9位初入賞という形となった。結局、これが最初で最後の入賞であった。

 2014年10月5日、鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPにおいて、折からの台風18号に伴う雨により、44周目にダンロップ・コーナーを旋回中にハイドロプレーニング現象が発生。コントロールを失いアウト側にコースアウト。同じ場所で先にコースアウトし、クラッシュしていたエイドリアン・スーティルのマシンを撤去していたホイールローダー(クレーン車)に後方から追突した。

 ビアンキは意識を失い、救急車で四日市市の三重県立総合医療センターへ搬送され、緊急手術が行われた。手術は成功し、ビアンキは人工昏睡状態におかれ同病院で治療が継続されたが、自発呼吸の回復とバイタルサインの安定が認められた事から母国への移送ができると判断、11月19日にフランス・ニースのニース大学付属病院に転院した。しかし、9ヶ月後の2015年7月13日にSNSでビアンキの親族が「現在楽観できない状況になりつつある」と発信。その4日後の2015年7月17日夜、ビアンキは意識が戻らないまま入院先の病院にて帰らぬ人となった。F1グランプリ決勝中における死者はアイルトン・セナ以来21年ぶりの事であった。

 2015年7月17日死去(享年25)