本山茂久

本山茂久(もとやましげひさ 1928年4月3日生)
 [誘拐殺人犯]



 1928年、新潟県の農家の長男として生まれた。一家は広大な土地を持ち、非常に裕福であった。小学校時代の成績は常に優秀であったが、おとなしい性格で友達と遊ぶということはあまりなかった。高田中学校へ進学し、3年時に陸軍兵器学校に合格、神奈川県に移った。終戦後の1947年、東京歯科大学に入学。大学在籍中に助教授の妻と出会い交際をはじめ、卒業後に2人の男児をもうけた(籍を入れたのは1958年)。1954年、歯科医師試験に合格し、豊島区の歯科医院に勤めた。1956年には実家から金を借りて、念願の「本山歯科医院」を杉並区で開業した。高収入だったが愛人を作り二重生活を続けていたため、収入以上の支出となり借金をしていた。結局、開業して5年ほどで歯科医院を閉鎖することになり妻とは離婚。しばらくは慰謝料や養育費を送っていたが、やがて自身の生活が困窮してしまった。

 金に困り果てた本山は、1960年4月、フランスで起きた自動車王のプジョーの孫・エリック誘拐事件(エリックは無傷であった)の記事を見て、身代金目的の誘拐をしようと企てた。「狙うなら金を払いそうな金持ちの家の子供がいい」と思い付き、慶應義塾幼稚舎の児童を狙うこと、さらに多くの児童が鉄道からバスへ乗り換える目黒駅周辺で連れ去るということも計画した。

 1960年5月16日朝、世田谷区のカバン製造会社の社長の長男で慶応義塾幼稚舎の2年生であった男児(当時7歳)に対し、目黒駅で「お母さんに頼まれたので病院に行こう」と声を掛けて誘拐を図った。この時、幼稚舎の栄養士が本山に連れられて学校とは反対方向に歩く男児を目撃している。本山は男児を睡眠薬で眠らせた後、午前11時過ぎに男児宅に電話をかけ、お手伝いの女性に対し身代金200万円を用意するよう指示を出した。午後0時半過ぎ、男児の父親と幼稚舎が被害届を提出、秘密裏に捜査が開始された。午後2時半頃、本山は男児宅に再び電話をかけ、男児が無事であることと、お手伝いの女性に金を持って都民農園に行くように指示を出した。都民農園付近は事件を起こす前日までに入念な下見を行い、逃げやすそうな場所に車を停めていた。ところが、お手伝いの女性がやってくると、逆の方向から追尾する捜査員を見つけたため、この日の受け取りを取りやめた。

 午後3時半頃、ある女性が杉並区の本山宅を訪問。玄関に鍵がかかってなく、玄関に児童用レインコートや白襟の付いた上着や紺色のフェルト帽子が放りっぱなしになっており、奥の四畳半に7つぐらいの男の子が寝ていた。女性はその男の子に「どうしたの?」と尋ねたところ「病院のおじさんと目黒から来た」と返事をする。

 翌17日、本山は男児宅に電話をかけ、お手伝いの女性に対し身代金300万円を持って午後8時半に大泉学園からバスで大泉風致地区で降りるよう指示したが、指定した場所で女性を待ち合わせていた際に、本山は足を滑らせて肥溜めに落ちてしまい、ズボンとサンダルには糞が付いてしまったため取引を断念し家路に着いた。

 そして3日目の18日朝方、マスコミが誘拐事件を報道。16日午後に本山宅を訪ねた女性が、目撃した男の子は被害者なのではと近所の派出所へ通報。これを受けて捜査陣が本山宅への張り込みを開始。犯人を特定しようと事件の詳細に至るまで加熱した報道を繰り返したメディアによって精神的に追い詰められた本山は麻酔薬で衰弱状態となっていた男児を殺害しようと決断。男児の口にゴムホースを使ってガスを入れ、その上で首を絞めて殺害、自宅を監視されていることを知って、あわてた本山は死体となった男児を乗用車に乗せて、追跡する捜査員を振り切り逃走。本山は杉並区内で男児の遺体を乗せた車を乗り捨てると、横浜市から大阪市へと逃亡した。

 本山は全国に指名手配されたが、偽名を使いながら布施市(現東大阪市)のハンドバッグの口金製造会社で住み込み工員として仕事をしていた。しかし、7月13日、工員の男性から「同居する男が指名手配犯に似ている」として交番に通報され、4日後の7月17日、警察に誘拐殺人の罪で逮捕された。こうして逮捕された犯人の本山茂久は1961年3月31日、東京地方裁判所で死刑判決を受ける。本山は死刑を逃れようと自身の大便を食べる、嘘の幻覚や幻聴を起こす等、精神異常者の物まねをしたといい、精神鑑定でも「犯行時は心神耗弱」という結果が出たため、一度公判が中断されるが、5年後の1966年8月26日、東京高等裁判所が控訴を棄却。翌1967年5月25日、最高裁判所も第一審(原審)を支持して本山の死刑判決が確定。1971年(月日不明)、東京拘置所において死刑が執行された。すでに死を覚悟していた本山はひげを剃り、部屋をきれいに片付け、静かにその日を待っていたという。

 最後まで本山の妻が接見に来ることなかった。妻は本山の死刑が確定した1ヶ月後本山に離婚を申し入れ、さらに800万円の慰謝料を請求した。本山は離婚を受け入れ、慰謝料の800万円は本山の母親が故郷の山林を売ったお金で支払ったという。何故実家にそれだけのお金があるのに事件を起こす前に母親を頼らなかったのか疑問が持たれた。また、この事件は誘拐事件において加熱した報道を繰り返したメディアに深い反省を与え、報道協定が制度化するきっかけにもなった。

 1971年?月?日死去(享年43)