後藤健二

後藤健二(ごとうけんじ 1967年9月22日生)
 [ジャーナリスト]



 宮城県仙台市で末っ子として生まれる。法政大学第二高等学校を経て、1991年に法政大学社会学部を卒業。東京放送系のテレビ番組制作会社を経て、1996年に映像通信会社インデペンデント・プレスを設立。アフリカや中東などの紛争地帯の取材に携わる。1997年に受洗し日本基督教団田園調布教会信徒となる。2006年、紛争地域の子供を取材した『ダイヤモンドより平和がほしい』で、第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。2011年の東日本大震災では、被災地の石巻市や気仙沼市で日本ユニセフ協会の記録員を務めた。中東での取材中でアル=ヌスラ戦線に拘束されたものの、1日で解放された。2014年10月に妻が夫婦の2人目の子供となる女子を出産。前妻との間にも一女を設けている。

 2014年8月に「過激派組織ISILに拘束された知人の湯川遥菜を救出するために中東に向かう。29日午前中に帰国する」と友人に告げ、10月22日頃に日本を出国した。渡航計画を知った日本政府は後藤の身を案じ渡航中止を打診したが、後藤の意志は強かった。10月24日にトルコ南部のキリスからシリアに入国し、クリスチャントゥデイのコラムのメールを送信し、10月26日に掲載された。10月25日にISILの支配地域への潜入の目的を語ったビデオメッセージをシリア人ガイドに託し、シリア北部のアレッポ県から別のシリア人ガイドと共にISILの支配地域へと入った。シリアではガイドが何人か代わっており、最後のガイドがISILに通じていて騙されたのではないかという見方がある。帰国予定の10月29日になっても戻らず、行方不明となった。11月1日頃に「シリアに同行したガイドに裏切られ、武装グループに拘束された」とトルコの知人に電話連絡があった。この数日後にISILの関係者を名乗る人物から数十億円の身代金を要求するメールが家族に届いた。

 2015年1月20日になり、ISILが日本国民と日本政府に向けたビデオに別に人質となっていた湯川遥菜と共に登場し、覆面を被り通称ジハーディ・ジョンと呼ばれるISILのメンバーの男が「72時間以内に2億ドルの身代金の支払いがないと両人質を殺害する」と述べた。日本政府は現地対策本部をトルコにではなくヨルダンに設置することをわずか3分の緊急会合で決めた。トルコに対策本部を設置しなかった理由についてTV番組の報道ステーションでは、トルコに対策本部を置くと身代金要求に応じるか否かの交渉の流れになるため、身代金要求には一切応じないことを決めこんでいた日本政府の選択肢はヨルダンへの設置しかなった。1月23日、母親が記者会見を行い「健二はイスラム国の敵ではない」と訴え、涙を流しつつ、息子を殺さないように懇願した。1月24日午後11時に殺害された湯川の写真を掲げる動画がインターネット上に流れ、後藤とされる声(英語)で湯川を殺害したという声明が出された。また、同声明の中には2005年にヨルダンの首都アンマンで発生した爆弾テロ事件(2005年アンマン自爆テロ)の実行犯として収監中のサジダ・リシャウィの釈放を要求するものが含まれていた。

 2月1日(日本時間午前5時3分)にISILによって後藤が殺害されたとみられる動画がインターネット上に公開された。動画は「日本政府へのメッセージ」というタイトルから始まり、覆面を被ったジハーディ・ジョンとおもわれる男が「日本政府へ。おまえたちは邪悪な有志国連合の愚かな参加国と同じように、われわれがアラー(神)の恵みによって権威と力を備え、おまえたちの血に飢えた軍隊を持つイスラム国だということを理解していない。安倍よ、勝ち目のない戦いに参加するというおまえの無謀な決断のために、このナイフは健二を殺すだけでなく、おまえの国民を場所を問わずに殺戮する。日本にとっての悪夢が始まるのだ」と語った後、後藤がナイフによって首を切断されたような静止画(横たわる体の上に頭部が載せられた)が映っていた。

 後藤が殺害されたとみられる動画投稿が行われた後、警察による動画の検証が行われた結果「信憑性が高い」とされ、政府は動画投稿から1時間40分後の日本時間午前6時40分頃にこの件についての会見を行った。また、母親は2月1日午前に会見を開き、「今はただ、悲しみ、悲しみで言葉が見つかりません」「憎悪の連鎖になってはなりません」「戦争と貧困から子どもたちの命を救いたいとの健二の遺志を引き継いで下さい」と泣きながら訴えた。後藤が生前につぶやいたツイッタ―へのリツイートが極めて多く話題となった。ツイートの全文は次の通り。「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」。

 2015年1月30日死去(享年47)