エドウィン・バレロ

エドウィン・バレロ(Edwin Valero 1981年12月3日生)
 [ベネズエラ・プロボクサー]



 プロとしての全戦においてKO勝利した。そのため「KO Dinamita(ノックアウト・ダイナマイト)」の異名を持っていた。生涯プロ戦績27戦全KO勝利。世界王者クラスとしては、史上ただ一人のパーフェクトレコード保持者である。またプロデビューからの18戦はすべて初回KO勝ち。

 2002年7月9日、20歳でプロデビュー。デビュー戦から12戦連続初回KO勝利という記録を更新中の2004年に、ニューヨーク州コミッションのMRI検査で試合直前に脳に異常が発見され(2001年に起こしたバイク事故の後遺症)、ライセンス停止処分を受け、2004年初頭からブランクを余儀なくされる。しかし、コミッション以外の検査では異常が発見されなかった。

 米国のコミッションにてライセンスが停止されたが、米国以外の国では試合ができた。そこに目を付けた日本の帝拳プロモーション・本田明彦会長の目に留まり、同プロモーションと契約して来日、家族と共に東京で生活を始める。日本ではバレロより先に来日していた同国人のホルヘ・リナレスと共に帝拳ジムでトレーニングを行なった。

 1年半近いブランクを経て、2005年5月21日のヘルマン・バレンズエラ戦で再起、ブランクを感じさせないファイトで初回KO勝ちを飾って以降は、その強さに対戦相手を探すのが困難になるほどだった。阪東ヒーローとの試合では「バレロが1RKO勝ちを逃せば、対戦相手に100万円を与える」という異例の賞金マッチであったが、公約通りに1RKO勝ちを収めた。1RKO勝ちが極端に多いバレロであったが、この試合が一番それを意識した試合だったと語っている。

 2006年2月25日、ワイバー・ガルシアを初回TKOに降し、WBAラテンアメリカスーパーフェザー級王座獲得。これでプロデビューから18戦連続初回KO勝利となった。3月25日、神戸でノンタイトル戦を行い、2回TKO勝ち。連続初回KO記録こそ途切れたものの、デビューからの連続KO勝利は19に伸びる。8月5日、20戦目で世界初挑戦。WBA世界スーパーフェザー級チャンピオンのビセンテ・モスケラに挑む。ダウンを奪われるなどの苦戦を強いられたものの、最後は10回TKO勝ちを収め、王座奪取に成功。

 2007年1月3日、有明コロシアムで初防衛戦。ミチェル・ロサダと対戦し、初回1分12秒KO勝ち。3試合ぶりの初回KO勝ちを収めた。5月3日、有明コロシアムで王座2度目の防衛戦を行った。これは指名試合だったが、1位のマニー・パッキャオはWBC王座挑戦を念頭に置きつつ、米国でのビッグマッチを計画中のため、2位の本望信人が繰り上がりで指名挑戦者となった。挑戦者のタフネスの前に苦戦を強いられたが、最後は8回1分54秒負傷TKO勝ちを収める。12月15日、メキシコ・カンクンで3度目の防衛戦。サイド・サバレタに3回1分18秒TKO勝ち。

 当時の戦場であったスーパーフェザー級は、マニー・パッキャオだけでなく、ファン・マヌエル・マルケス、マルコ・アントニオ・バレラとスター揃いで、本人も彼らとのビッグマッチを望んでいた。2008年3月下旬に米国テキサス州コミッションでライセンスを取得した。

 2008年6月12日、4度目の防衛戦。日本武道館で嶋田雄大と対戦し、7回1分55秒TKO勝ち。この試合が日本でのラストマッチとなった。その後、ライト級転向するため、2008年9月4日付でWBA王座返上。また夫人のホームシックから契約期間途中であったが帝拳との契約を解消し、ベネズエラへ帰国した。

 2009年2月にボブ・アラムが主催するトップランク社に移籍し、米国に拠点を移した。4月4日、アメリカ合衆国・テキサス州でアントニオ・ピタルアとWBC世界ライト級王座決定戦で対戦。2回49秒TKO勝ちを収め、王座獲得。2階級制覇を達成した。

 2009年9月24日の夜、泥酔した後の金銭トラブルがきっかけで暴力をふるい逃走。その後、現地の警察官に取り押さえられて逮捕された。

 2009年12月19日、初防衛戦。母国・ベネズエラにてヘクター・ベラスケスと対戦し、6回終了TKO勝ち。2010年2月6日、敵地で暫定王者アントニオ・デマルコとの王座統一戦に臨み、9回終了TKO勝ち。2度目の防衛に成功し、これでデビューから27戦連続KO勝ち。この試合が生涯最後の試合となった。デマルコとの統一戦後、スーパーライト級への転向を希望して同王座を返上したが、WBCからは2010年2月9日付でライト級休養王者として認定された。

 2010年3月25日、ベネズエラでバレロの妻が肺の破裂と肋骨骨折の重傷を負った状態で病院に担ぎ込まれた。遅れて病院へやって来たバレロは妻へ警官に事情を話すなと命令し、医者と看護師を威圧して脅した。妻への暴行容疑と病院関係者を脅迫した容疑でバレロは逮捕されたが、妻は階段から落ちて怪我をしたのだと話しバレロから暴行を受けたことを否定、バレロの母親も同じ主張をしたことで暴行容疑に関しての訴えは取り下げられた。3月28日、バレロは薬物中毒とアルコール中毒を治療するため精神病院で6ヶ月間のリハビリ生活を送ることになる。

 2010年4月18日、バレロはベネズエラ・カラボボ州バレンシア滞在中のホテルにて妻をナイフで刺殺した容疑で逮捕された。翌4月19日、警察署内の留置場で履いていたスウェットパンツで首を吊って自殺を図っているバレロが発見され、まだかすかに息があったが後に死亡が確認された。コカインとアルコールの中毒であり精神異常を来たしていたと言われる。

 妻はバレロに殺される5ヶ月前に左足を拳銃で撃たれて病院で手当てを受けており、妻は家の外で見覚えの無いオートバイに乗った男に撃たれたと証言していたが、これもバレロに撃たれたのではないかと見られている。このように妻がバレロから家庭内暴力を受けていたことを伺わせる事例が表面化しただけでも数度あったことから、行政が介入していれば妻が殺されることはなかったとベネズエラの女性団体が抗議行動を起こした。

 2010年4月19日死去(享年28)