エリック・ヤン・ハヌッセン

エリック・ヤン・ハヌッセン(Erik Jan Hanussen 本名:ヘルマン・シュタインシュナイダー 1889年6月2日生)
 [チェコスロバキア・手品師/占星術師]



 ウィーン生まれ。ハヌッセンは自身の出自をデンマーク貴族と吹聴していたが、両親ともユダヤ人で、父ジークフリートは旅役者、母アントニエ・ユリエは裕福な毛皮商の娘であった。幼い頃に母を亡くし、父親の再婚相手と馴染めずにウィーンのカフェで奇術を学んだ。第一次世界大戦に従軍し、その時の上官から「ヤン・エリック・ハヌッセン」の名を得ている。

 戦後、超能力を舞台に掛けるようになり、本人は千里眼があると主張していたが、実際には奇術であった。この頃、チェコスロバキアの国籍を取得している。 当初はただの一端の手品師だったが徐々に人気を集め突撃隊幹部と交流を持ち、社交界にも人脈を広げる。ハヌッセンはナチ党を支持しており、ユダヤ人であることは公然の秘密となっていた。

 1930年代にはハヌッセンの舞台は大盛況で、非常に人気があった。アドルフ・ヒトラーとは1932年11月ドイツ国会選挙以前から交流を持ち、軍人上がりのヒトラーの演説に対し、ボディ・ランゲージを指導すると同時にヒトラーお抱えの預言者としても活躍。ナチ党幹部との間にも太いパイプを構築していった。


 1931年にブレスラウの印刷会社を購入し、オカルト雑誌『ハヌッセン・マガジン』『ブンテ・ボッヘンシャウ』を刊行する。ハヌッセンは雑誌の印税や舞台で得た収入で屋敷を購入・改築し、この屋敷は人々から「オカルト宮殿」と呼ばれるようになった。「オカルト宮殿」の一室では交霊会が行われ、大きな円卓の周りに座り下から照らされるガラスに掌を置いた招待客にハヌッセンが預言を伝え、人気を集めた。ドイツ国会議事堂放火事件を予言し、更に注目を集めるようになり、上流階級からの招待を受ける際は常に従者を伴うようになった。国会議事堂放火事件に関しては、放火犯とされたマリヌス・ファン・デア・ルッベに催眠術を掛け犯行を行わせたという奇説が存在する。

 ナチ党政権が樹立された際には「オカルト省」なるものを設立し、その大臣に就任して国家を動かすつもりだったと言われている。しかし、ナチ党の権力掌握後の1933年3月25日に突撃隊によって妻と共にベルリンで暗殺され、遺体は郊外のシュターンスドルフに捨てられた。暗殺の理由は、ヒトラーがハヌッセンに危機感を抱くようになったという説が一般的だが、ヨーゼフ・ゲッベルスとヘルマン・ゲーリングの権力争いに巻き込まれたという説もある。遺体は一か月以上経って発見され、シュターンスドルフに埋葬されている。

 1933年3月25日死去(享年43)