マタ・ハリ

マタ・ハリ(Mata Hari 本名:マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ 1876年8月7日生)
 [オランダ・ダンサー]



 レーワルデン生まれ。父は石油産業への投資を成功させて店を持ち、贅沢な暮らしができるほど裕福になった。それゆえ、彼女は13歳まで上級学校に通えた。しかしながら、父は1889年に破産し、その後両親はすぐに離婚。母は1891年に亡くなった。家族は離散し、彼女は自分の後見人が住むライデンに移住した。同地にて、幼稚園の教諭になるために勉強するも、学長が彼女と露骨に戯れるようになったため、気分を害した後見人によって施設から追われた。わずか数ヶ月後、彼女は叔父の家があるデン・ハーグに逃れている。

 その後、新聞広告に掲載された結婚相手募集によって結婚し、2児を儲けるも離婚。離婚後、20世紀の初頭にパリに移り住む。ジャワ島からやって来た踊り巫女ないし王女という触れ込みでダンサーとなり、「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じた。芸名の「マタ・ハリ」は「太陽」あるいは「日の眼」を意味するムラユ語である。彼女はまた、多くの高級士官あるいは政治家を相手とする高級娼婦でもあった。

 彼女は、数知れないほど多数のフランス軍将校あるいはドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、国際的な陰謀の道具となっていった。もっとも彼女の諜報活動が正確にどのようなものであったかについては、歴史家も明らかにできていない。1917年に、彼女はフランスにおいて二重スパイとして第一次世界大戦で多くのドイツ人、およびフランス人兵士を死に至らしめたとの容疑で起訴された。その逮捕は、ドイツの在スペイン駐在武官がマタ・ハリを暗号名H-21なるドイツのスパイとした通信がフランスによって解読されたことからなされた。当時、戦況はフランスにとって不利でありフランスの政府にとって全ての軍事上の失敗を彼女の責に帰することは大変好都合だった。

 彼女は有罪となり、サンラザール刑務所にて、10月15日に狙撃隊によって銃殺刑に処せられた。彼女はフランス軍およびドイツ軍にとって非常に低級レベルでの諜報要員であったことは確かだが、彼女が独仏どちらの陣営に対しても意味のある情報をもたらした証拠は一つもない。

 裁判、処刑についてもさまざまな逸話がある。よく知られたものは、裁判の際は処刑を免れるため妊娠していると支援者より申告を勧められたが本人が拒否した。処刑の際、銃殺隊は彼女の美貌に惑わされないよう目隠しをしなければならなかったというものがあるが、これが真実とすればいったいどうやって正確に彼女を狙撃できたのだという疑問がでてくる。他にも、彼女は銃殺の前兵士たちにキスを投げた、あるいは銃殺寸前にロング・コートの前をはだけ、全裸で銃殺された、という話もある。

 1917年10月15日死去(享年41)