宮城宗典

宮城宗典(みやぎむねのり 1965年1月8日生)
 [歌手]



 東京都出身。1983年4月、ロカビリーバンド「ヒルビリー・バップス」を結成し、ボーカルを担当。確かな演奏力に加え、人目を惹くメンバーの容姿の相乗効果で硬派・軟派の両方から支持され、インディーズ時代はライブハウスの動員記録を次々と塗り替える勢いがあった。1986年4月25日、シングル『微熱なキ・ブ・ン(とびきり16歳)』でキティレコードからメジャーデビュー。同曲はライオンの制汗デオドラントのCM曲に起用されたこともあり、スマッシュヒットとなった。

 好調なスタートを切ったが、レコード会社の判断で当時人気のあった“アイドルバンド”と呼ばれるそれらに沿う売り出し方を余儀なくされ、硬派な印象の強いリーゼントを下ろし、衣装もポップなものを着せられた。撮影ではニコニコと作り笑いをし、歯を見せて笑わなければいけないことに釈然としない思いをしながらも、新人と言うこともあり「仕事だから」と割り切って淡々とこなしていった。その頃の宮城は忌野清志郎と出会い、「俺のソウルブラザー」と呼ばれる程に可愛がられ、セカンドシングル『バカンス』を忌野に書き下ろしてもらう。同年10月にはデビュー半年目でテレビ朝日の深夜枠『まんまとアイドル』のレギュラーを獲得した。

 メジャーデビュー2年目の1987年はレコーディング、全国ライブ、テレビ出演、映画出演、地方キャンペーンと休む暇のない1年だった。10月からは、前年度放送された主演バラエティ番組が好評だったため、同じテレビ朝日で新番組『ヒルビリー・ザ・キッド』の放送が始まる。この時期のスケジュールは過密でありメディア露出も多かった。加えてレコーディングもこなし、極度のストレスを感じていたという。しかし、このすさまじい活動のおかげか、翌1988年早々に売り出した春の全国ツアーのチケットは最短5時間で完売。この人気に応えるべく、グループは急遽ミニアルバムのレコーディングに入り、約4週間で完成させた。

 全国ツアー初日公演(1988年3月28日、日清パワーステーション)を終えた翌日、突然ビルの12階から飛び降り自殺を図った。前述の活動に疑問を感じ、バンドとして本当にやりたい音楽から離れていってしまっているジレンマから鬱の症状があったと言われている。しかし、遺書も遺言も残されておらず、突発的な衝動による事故とも言われているが、真相は謎に包まれたままである。

 予定されていた残りのツアーは全てキャンセル。3月31日に放送された主演テレビ番組『ヒルビリー・ザ・キッド』(3月5日に収録されたもの)の最終回は変更なく放映、深夜にも関わらず5.5%の視聴率を記録。番組の最後に「宮城君の愛した音楽は永遠に残ります」のテロップが映し出された。同年5月5日には日比谷野音で追悼ライブが行われ、以前より親交のあった音楽仲間や映画を通じて親しくなったミュージシャンが多数参加した。

 折原みとの小説「真夜中を駆けぬける」のモデルになっているほか、プリンセス・プリンセスの楽曲「M」で歌われている人物ではないかとの説があるが、これは都市伝説であり同時に今ひとつ信憑性に欠けるのも事実である。

 東京都江東区亀戸にある自性院境内に供養塔「施無畏(セムイ)観音」があり、今でも沢山のファンが訪れており、宮城が生前好きだった花の絶える事がない。

 1988年3月29日死去(享年23)