正田昭

正田昭(しょうだあきら 1929年4月19日生)
 [死刑囚/小説家]



 正田は裕福な中流家庭で兄3人と姉2人の末っ子として生まれる。弁護士だった父は生後5ヶ月で他界し、教師だった母親によって育てられる。母は賢母だったが印鑑と銀行の貸金庫の鍵を肌身離さず持つなど金に対する執着が強く、そのような母に耐えられなかった長兄が家庭内暴力をするようになる。長兄の暴力から逃げるような形で慶應義塾大学経済学部へ進学。大学時代に1歳年下の女性と交際。しかし、正田は友人から交際相手が同時に多くの男性と交際する女性だと聞かされ、友人自身もその交際相手の一人だったことを聞かされ、衝撃を受ける。それ以降、麻雀、ダンスと浪費癖が激しくなって生活が堕落し、自殺も考えるようになった。

 大学卒業後は日産自動車への就職が内定したものの、健康診断で肺浸潤と診断されたため内定取り消しの憂き目にあい、腰掛けのつもりで中堅の証券会社に勤務。交際相手の叔母が得意先となり資金を運用していたが、顧客の株券・預り金を使いこんだため、入社からわずか2ヶ月の6月25日付で会社から解雇された。

 解雇されて1ヶ月後の7月27日に彼女の叔母の資金を返すために仲間2人とともに東京・新橋のバー・メッカの屋根裏で証券ブローカー(当時40歳)を撲殺し、現金41万円を強奪する。その後、バー・メッカは通常の営業をしていたが、客が飲んでいるところに天井から血が滴り落ちてきたため警察で検証したたころ、天井裏に男性が汚れた軍隊毛布をかぶせられて、うつ伏せになった死体が発見される。首と両足を電気コードで縛られ、鈍器による傷が全身にあり、2階の天井は血の海となっていた。


 その直後に警察に指名手配されて逃亡していた正田だが、10月12日に京都で逮捕される。当初は「ただナット・ギルティ(無実)を主張するだけです」と英語交じりに語ったり、共犯者を主犯とする供述をしていたが、やがて自分が主犯だと自供した。

 獄中でカトリックと出会い、それ以後の正田は模範囚であった。1963年に最高裁で死刑が確定した。獄中では正田で小説を書くようになる。1963年に書いた小説「サハラの水」は、「群像」の新人賞候補にもなった。1969年12月9日、死刑執行。その前夜、正田は弁護士宛てに次のような手紙を書いていた。
「先生、さようなら。いよいよお別れの時が参りました。つい先日、慈父のごとき愛にみちた御手紙をいただいたばかりですのに、もう先生のお言葉に接することができないとは、本当に悲しいですし、明日の死を前に、最後の面会に来てくれました母の心を思うと、ふかい悲しみにみたされ、今更のように親不孝なわが身が責められてなりません。しかし、今は母もゆるしてくれているでしょう。母は『天国に行って待っていてね。そしてお母さんがゆくときは迎えに来てね』と云いました。先生、ながい間、本当にありがとうございました。御恩はあちらへ行っても忘れません。どうぞ母と私のためにお祈りください。これから、最後の夜を母のためにすごすつもりです。では先生、もういちど、さようなら。」

 1969年12月9日死去(享年40)