チェスター・ベニントン

チェスター・チャールズ・ベニントン(Chester Charles Bennington 1976年3月20日生)
 [アメリカ・歌手]



 アリゾナ州フェニックス生まれ。父親は刑事、母親は看護婦で、ベニントンが11歳のときに離婚し、父親に引き取られた。7歳から13歳まで年長の男友達から性的虐待を受け、16歳までにLSDなどの薬物やアルコールを大量摂取するようになる。寂しい家庭環境を紛らわすため絵を描いたり詩を書いたりするようになり、音楽に興味を持つようになる。Grey Dazeというバンドを始め仲間ができたことで環境は好転するが、暗い過去を忘れるためにますます酒やコカインやメタンフェタミンに溺れるようになる。薬物中毒で風貌が一変したことに驚いた母親に17歳のときに連れ戻されるが、音楽活動は好調で2枚のアルバムを出し、地元の人気バンドとなるも解散、22歳で結婚し、デジタルサービス会社で働く。

 しばらくは新しいバンドが見つからず音楽を諦めかけていたころ、ロサンゼルスにあるZomba Musicの副社長ジェフ・ブルーが彼をリンキン・パークのボーカルのオーディションに誘った。ベニントンは仕事を辞め、家族をカリフォルニア州に呼び寄せ、オーディションにも合格した。リンキン・パークはワーナー・ブラザース・レコードとの契約に漕ぎ着け、2000年10月にドン・ギルモアのプロデュースで1stフルアルバム『ハイブリッド・セオリー』をリリース。ビルボード・アルバムチャートで初登場16位、最高位2位を記録。アメリカで2001年に最も売れたアルバムに認定された。アルバムの大ヒットを機に数多くのツアー、コンサートに参加。2002年、第44回グラミー賞で3つの部門にノミネートされ、『ハイブリッド・セオリー』からの2ndシングル「クローリング」でベスト・ハード・ ロック・パフォーマンス部門を受賞した。

 2000年代初頭の驚異的な成功にも関わらず、ベニントンはステージの外では多くの問題を抱えていた。もともと彼は病弱で、2001年のロックフェス(オズフェスト)の最中にドクイトグモに腕を噛まれてしまった。2003年夏には病気に倒れた。2007年10月にはメルボルンでのステージで舞台に飛び乗ろうとした時に手首に怪我を負ったが、演奏を続け、終了後すぐに救急救命室に運び込まれた。

 2017年7月20日、ロサンゼルスの自宅で死亡しているのが発見された。家族が外出中の首吊り自殺だった。この2ヶ月前に音楽仲間のクリス・コーネルが首つり自殺しており、ベニントンが亡くなった日はコーネルの誕生日だった。ベニントンはコーネルの息子の代父も務める親しい友人でもあり、コーネルの葬儀ではレナード・コーエンのハレルヤを歌ったばかりであった。自殺の理由については、親友であったクリス・コーネルの後追いや、ベニントン自身のミュージシャンとしての従事期間が27年目であった事などが考えられる。

 2017年7月20日死去(享年41)