テレサ・テン

テレサ・テン(鄧麗君 1953年1月29日生)
 [台湾・歌手]



 日本や台湾、香港をはじめとする東アジアで絶大な人気を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。

 10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビュー。16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす。その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火がつき、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる。1973年に香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔との出会いがきっかけで日本での活動を開始。デビュー2作目となる『空港』が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得する。


 1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で、日本は中華人民共和国と国家の承認をし、中華民国とは国交断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。 パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。

 この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求した。しかし舟木稔は、その要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろうと考え、彼女をアメリカに渡らせることにした。事件から一年後の1980年、台湾政府への協力を条件に帰国を許された彼女は、中華民国国軍の広告塔として活動した。そして、台湾での歌手活動も再開した後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。

 1980年代初めには、中華人民共和国でもコピーされた彼女のカセットテープが出回るようになり、人々の心をつかんでいた。1983年には、香港でデビュー15周年を記念したツアーを行い、10万人を動員。しかしその影響力を嫌がった中国共産党政府は、1983年頃にテレサの歌を放送禁止にした。それでも人々は、ダビングしたカセットテープを回したり台湾の放送をキャッチしたりして、その後も彼女の歌を密かに聴いていたという。中華圏のCDショップでは、現在でも1982~1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めたDVDがよく売られている。

 1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍し、日本再デビュー。『つぐない』は有線放送を通じてじわじわと人気に火がついて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。翌1985年にリリースした『愛人』は150万枚、1986年リリースの『時の流れに身をまかせ』は200万枚を売る大ヒットとなった。


 1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。1990年以降はパリに居住。中華人民共和国の北京における天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。1990年代に日本をはじめとするアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。

 1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし死去した。部屋から出てきたテレサが倒れていたところをホテルの従業員に見つかり、救急車でラム病院に搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分かかり、到着時には既に死亡していたという。42歳の若さだった。

 墓所は台北市新北市金山区の金宝山にあり、彼女の歌声が絶えず流されている。台湾での彼女はあまりにも偉大なため、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。

 1995年5月8日死去(享年42)