河津憲太郎

河津憲太郎(かわつけんたろう 1914年9月26日生)
 [水泳選手]



 広島県出身。父・河津彦四郎は師範学校の教師で、1909年広島県師範学校に赴任し、陸上競技・バレーボールなどを当地で広め「広島スポーツの父」とされる人物。1918年神奈川県師範学校に転勤しているので、一子・憲太郎はこのまま広島で育ったものと思われる。旧制修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)では、のちに一緒にオリンピックに出場しメダルを獲得することになる河石達吾、大横田勉の後輩に当たる。1930年、同校在学中に50メートル背泳ぎで33秒2の日本新記録を出した。

 1932年明治大学在学中、ロサンゼルスオリンピックに先輩らとともに選ばれ、100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。金メダルの清川正二、銀メダルの入江稔夫と共に日本選手で表彰台を独占する快挙となった。1934年の第10回極東選手権競技大会(マニラ)などでも活躍した。

 1970年3月24日夜、自宅近くの埼玉県狭山市の公園で焼身自殺した。遺書もなく自殺の原因について詳しいことはわかっていないが、前年秋から高血圧を苦にしており、数日前から会社を休んでノイローゼ気味だったという。

 1970年3月24日死去(享年55)