久保田万太郎

久保田万太郎(くぼたまんたろう 1889年11月7日生)
 [俳人/小説家]



 東京生まれ。生家は祖父の代より「久保勘」という袋物製造販売を業としていた。家業を継がせたい両親を祖母が説得、慶應義塾大学予科へ進学し、俳句をつくり始める。文学科における文科改革(森鴎外や永井荷風が教授に就任)と出会ったことが運命を決めた。『三田文学』を創刊したのに刺激を受け、作家になることを決意する。1911年、予科二年を経て文科本科に進み、小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、一躍世に文名を挙げることになった。以来、次々と戯曲や小説を発表、人情味溢れるユニークな作風で文壇の地位を確固たるものとした。

 1931年にNHKに入局し、1938年まで勤めた。その間、1935年に妻が睡眠薬を飲んで死ぬという事件に見舞われる。1937年に岸田國士らと劇団文学座を結成。この頃から新劇、新派の創作や脚色、また文学座の演出などで指導的役割を果たすようになった。

 1949年、毎日新聞演劇賞選定委員、日本放送協会理事、郵政審議会専門委員、文化勲章選定委員会委員、文化財保護専門審議会委員に就任。以来、日本全国各地を旅して紀行を執筆する。1951年、NHK放送文化賞を受章。1952年、ユネスコ国内委員、功労年金選定委員に就任。1954年に共立女子大学の講師。1956年、中央更生保護審査会委員に就任し、毎週一回法務省へ通う。1957年に文化勲章受章、同時に文化功労者。前年発表の『三の酉』により読売文学賞受賞。その後、死去まで三越で出版記念会を行ったり、佐渡や桑名、箱根、伊豆などで静養した

 1963年5月6日夕方、画家の梅原龍三郎邸にて設けられた宴席で赤貝のにぎり寿司を勧められた。美食家であった久保田は日頃より噛みにくい赤貝は口にしなかったが、気を遣い断らずに赤貝を口に入れた久保田は誤嚥性による窒息となり、母校でもある慶應病院に午後6時過ぎに搬送されたが、既に心肺停止状態で午後6時25分に死亡と診断された。

 死没に際して従三位に叙せられ、勲一等瑞宝章を贈られた。築地本願寺で葬儀を行い、法名は顕攻院殿緑窓傘雨大居士。後に「誤嚥下物気管閉塞による窒息死」という診断名が発表されたが、文壇史上ではまぎれもなく奇病である。

 1963年5月6日死去(享年63)